今年こそ改憲が動き出す年にしたいらしい安倍首相(2020年に改正憲法を施行したいのなら、そうでないと間に合わない)だが、通常国会の開会早々、所信表明で憲法について「国の形、理想の姿を語る」と勘違いの独自定義を披露して、さっそく失笑を買ってしまった。
この間違った思い込みひとつを取っても、いかにも安倍的な極度の「木を見て森を見ず」の不勉強な勘違いが相変わらず露骨だ。確かに日本国憲法も、前文だけ読めば敗戦のドン底を経た新しい国づくりで目指すべき理想が、簡潔で抽象的ながらも高らかに謳われているように見える。だがそこだけしか見ないで憲法を「理想の姿を語る」と思い込んでいるのは、この人は憲法の全文を読んだことがないどころか、もしかして憲法になにが書いてあるのかを漠然とすら知らないまま、これまで「改憲が念願」を気取って来たのだろうか?
全体が見えていないまま、枝葉末節だけを曲解して誇張することで全体を決めつけて支離滅裂なへ理屈に陥る頭の悪いフェイクニュース体質(本人にはそれが客観的には虚偽にしかならないという自覚がないらしい)は、安倍政権の際立った特徴のひとつだ。リトアニアを訪問して杉原千畝の記念館として保存されている旧日本領事館に案内されると、日本がナチスの同盟国だったこと、杉原が本国の命令に逆らってユダヤ人を救った歴史的文脈はきれいさっぱり忘れて「リトアニアの人々が日の丸を守ってくれて来た」とご満悦になり、「日本人として誇り」を感じているのだから、底の割れた御都合主義のつまみ食いパッチワークには新年早々呆れさせられる。
その前の年頭記者会見では「明治150年」を国民みんなに祝わせたい気持ちが先走ったのだろうが、初代総理大臣伊藤博文を「もともとは農家の出身であります」という一事だけで、明治維新は「武士、農民、町民、それまでの地位や立場に関係なく」という珍説を言い張っていた。いや伊藤博文は12歳の時に一家まるごと武士の養子になっているので江戸時代の身分制度では武士以外のなにものでもなく、もちろん武士でなければ長州藩士として明治維新に関わることなんて出来なかった(明治維新は武士と公家だけでやったこと、他の身分は関係ないのは日本史の常識)のだが、もういったいどういうフェイク歴史観なんだか。
憲法は目指す「理想の姿」ではなく、今まさに守っていなければならないルール
安倍さんの憲法に関する大勘違いも同じような、全体像を認識する知的能力の欠如に起因している。一見理想主義の表明に見える日本国憲法の前文ですら、憲法という構造のなかでは別に目指すべき「国の形、理想の姿」を示しているのではない。あくまでその後に続く条文の前提として国家理念が書かれているから前文が必要なのであって、あくまで具体的な個々の条文の理念的な根拠を提示して文脈と意味付けを明確にするために書かれたものだ。
あるいはさらにひどい無知非常識というか勘違いとして、この人にとって憲法イコール9条で、つまり平和主義の戦争放棄について「そんなのは理想に過ぎない」と思い込んでいるから憲法は「国の形、理想の姿を語るもの」と勘違いしているのだとしたら、さらに始末が悪いわけだが。
安倍さんの場合は時系列の認識がおかしいのはこれまでの様々な発言(歴史から自分の関わった森友・加計スキャンダルに至るまで)からもほぼ確実なので(そうでなければ病的レベルの噓つきということか)、現時点で遵守されるべき「理念」と将来目標の「理想」の違いも分からないのもしょうがないのかも知れないが、すべての条文は前文に示された理念に沿って解釈され、行政権も司法権もその前文の規定する理念的な枠組みの中でのみ行使されなければならないのが憲法の機能だ。立法も、たとえ国会でどれだけ多数が賛成票を投じようが、前文の基本理念とそれを踏まえた条文の解釈の枠内でなければ違憲立法で無効となるのが憲法つまり基本法の役割で、それを「法の支配」「立憲民主制」と言う。前文も含めて憲法の内容は国が目指す「理想」ではなく、政府が今現に守らなければならないルールだろうに、安倍さんはいったいなにをアベコベなことを言っているのだろう?
まさか憲法は「理想の姿を語る」でしかないから自分が守れないのも仕方がない、とでも言いたいのだろうか? ここでふと不安になるのが、安倍が9条改憲と抱き合わせで国民に受け入れられやすい改憲内容として挙げている「教育無償化」だ。
2020年に新憲法を施行して「新しく生まれ変わった日本を」と言うのだが、あと2年前後しかないなかでどうやって教育無償化の制度設計をやって財源を確保できるのだろうか? これだけを見ても安倍さんに時系列の認識の能力が欠如していることが強く疑われるのだが、それはともかく、だいたい漠然と「教育無償化」と言われても、では子供の習い事や学習塾、大学受験の予備校や、定年退職した高齢者が生涯学習センターに通うのも、フランスやアルジェリアやコートジボワールに駐在する予定の社員を企業がアンスティチュ・フランセに通わせるのだって、その負担も「教育費」には違いない。日本国の憲法は原則日本国内にしか適用されないが、日本人が海外留学する場合は「無償化」の対象になるのだろうか、という議論すら出て来かねない。では「無償化」の線引きはどうするのか、絶対的な平等性が適用される法の議論である以上はそこにどんな課題が出て来る可能性があるのかも、安倍さんも自民党もまるで考えていなさそうだ。
安倍「教育無償化」改憲は施行された瞬間に全国で違憲状態が発生する
まさか憲法は「理想の姿を語る」のだからとりあえず憲法に書くだけで、詳細は後から検討し、財源確保に努力する上辺だけのポーズでも取っておいて、延々と先延ばしにすればいいとでも思っているのだとしたら、とんだ勘違いだ。憲法に国民の権利を書き込めば、施行された瞬間にその字面に書かれた通りの権利が守られていなければ即憲法違反なのだ。
教育無償化はわざわざ憲法に書くまでもなく、現行の26条の枠内で学校教育費の負担を出来る限り公費で負担する制度は法的には可能なので(むしろハードルとなるのは財源)、改憲の必要もない。条文には「普通教育を受けさせる義務」と「義務教育はこれを無償とする」としか書かれていないのだから、そこに高校なり大学専門学校なりを個々の新法で追加すれば済む。念のため言っておくと憲法で「義務」なのは「保護する子女に普通教育を受けさせる義務」であって学校に行かなければいけない義務ではないので、義務教育の範囲を広げても全員が高校大学に進学しなければならないということにはならないし、ちなみに安倍政権下では現行の義務教育である小中学校についても、不登校の子やいじめ被害者が代わりに行けるフリースクール等の役割が大幅に拡大された。「普通教育」とだけ書かれていれば、その「普通」が時代時代の社会情勢によって変わっても、それに応じて個々の立法を改正すればいい、というのが日本国憲法の運用上の基本的な考え方だ。
それでも憲法に「教育無償化」を書きたいのなら、その時点でどういう教育は国庫ないし自治体負担にするのかを明確に条文に書き込まなければならない。安倍さんは法体系におけるポジティヴ・リスト(やるべきこと、ないし、やっていいことの列挙)とネガティヴ・リスト(禁止されたことの列挙)の違いも分からないらしいのでここが理解できないのかも知れないが、しかし憲法が「教育」とみなし無償化の対象とするポジティヴ・リストを条文に書き込もうとすると、それはそれで日本国憲法の特性からすると極めておかしなことになる。
他の規定はすべて抽象的な一般論しか条文化されておらず、だから全部で99条プラス施行された前後でのみ意味がある補足が4条と、あとは前文だけというコンパクトな憲法で済んでいるのが日本国憲法なのに、突然憲法上なにを「教育」とみなすのか(イコール、無償化の対象とするのか)の具体的な定義が列挙された改正条項がいきなり出て来ることになるのはいかにも不自然だが、それでもここで定義が明確にされなければ、「教育無償化」の改憲は確実に破綻する。例えばフリースクールを無償化の対象外にすれば道義的に言って裁判になればまず国が敗訴するだろうが、ここで明確な定義がなければユーキャンの資格取得講座だって教育だし、藤井聡太ブームにのって子供を将棋教室に通わせるのも教育だと親が主張するだけで、公費で負担しなければ違憲だと訴訟が濫発され、裁判所が大混乱になりかねない。
「教育無償化」はそもそも「改憲」で論ずることではない
しかも逆に言えば「教育とはなにか」という個々人の主観的な良心と思想信条の自由に関わる部分にすら、憲法の定義づけが強制されたり、平等原則に反した差別が起こることになるのも大問題で(藤井聡太くんにあやかって将棋教室こそ自分には必須の教育だとみなすのもそれ自体は個人の思想信条の自由だ)、11条、13条および19条違反の可能性も出て来る。
もっとも、安倍さんやその支持者には個々人の主体的な良心と思想信条の自由という概念そのものが気に入らず、一人一人の国民ではなく国家が「国の形、理想の姿を語る」憲法が、国家権力を制約するのではなく、その「国の形」に国民が従って当然で、国イコール自分達に従わないのは「反日」だから差別扱いは当然だという理屈になっているようだ(ちなみに言うまでもなく11条、13条、14条、16条および19条違反)。
だからこんなのは抽象的な理念とその適用される大枠を提示する現行条文を今のまま温存して、個別の立法でまず国立大学と国立高校の授業料を国庫負担とするのを手始めに、高校なら高校を恒久無償化する法律、大学を無償化する法律、大学院を国庫負担にする法律などをひとつひとつ作って行った方がはるかに現実的なのだ。だいたい施行前に教育基本法の改正も必要になるのに、どうやって2020年に間に合わせるつもりなのか? 安倍さんは自分の安易な人気取りの改憲支持集めが招く深刻な問題に、まったく想像が及ばないらしい。
安倍さんがやりたがっていることはまったく順番が逆なのだ。まず教育を無償化するという大方針を政策として掲げた上で、個々の教育機関について無償化の制度を法で定めて財政上の裏付けも担保し、それが一通り完成した時点でやっと憲法に書き込むのでなければ、改正憲法が施行された瞬間に日本中の学校教育機関で違憲状態が発生しかねない。
あるいは、これは「改憲」ではなく憲法解釈、条文の「普通教育」をどこまでが現在の日本社会で「普通」とみなすべきかの議論で済むことで、今の時代なら高校と大学専門学校までは「普通」だろう、と主張すればいい。
逆に言えばそうした無償化の範囲拡大の関連法制度が完成してしまえば、そこでわざわざ憲法に「教育無償化」を書き込む必要がない(立法事実がない)ので、改憲は不要になるとも言える。それでも教育が無料である状態を恒久的に担保したいというのなら改憲してもいいが(別に今の条文のままでも無償化は出来るのだが)、未来永劫恒久的にその財源は確保できるのだろうか? 無償化がやはり財政負担が大き過ぎて無理となって、もう一回改憲して元に戻すなんて話になれば、国会審議に二回分の国民投票の経費などがまったくの無駄になるだけではなく、ひたすらみっともない。立派な憲法は作りましたが守りきる能力がないから止めます、なんていうのは国辱そのものだ。
9条を改憲したいなら書き込むのは「自衛権」であって「自衛隊」は書き込めない
安倍さんの持論の「九条に自衛隊を明記」も、憲法全体の論理構造がまったく分かっていないからこそ出て来た稚拙な暴論でしかない。
自衛隊の合憲性に疑念の余地をなくしたくて9条になにかを付け加えたいのなら、1項の国権の発動としての武力行使の否定と2項の交戦権の否定と戦力不保持に、厳格に定義された自衛権を例外として明示することしかできないはずだ。まだ第2項の交戦権の否定と戦力不保持を削除するという自民党の元々の案なら多少の合理性はある(それでも第1項の「国権の発動として」にも自衛権をなんらかの理由を作って例外と明記しなければ、どっちにしろ論理破綻になる可能性は残る)のだが、安倍改憲論はそもそも法体系の論理的整合性が破綻している。
現行の立憲体制下では、自衛隊はあくまで自衛権を担保するために防衛省所管に置かれた行政機関に過ぎない。9条に書き加えるなら自衛権の行使を例外扱いにすることまでで、その自衛権を担保することを目的とした自衛隊という個別具体的な行政機関の明記なら、国家の行政に関する基本枠組みが書かれた第5章、ないし財政について規定している第7章かそれ以降にでなければ、憲法全体の論理構成が極めていびつなものになる。
しかも日本国憲法では、行政府を管轄する内閣について定義した第5章にも、それぞれの行政権限を所轄する行政機関についての具体的な記述はなにもない。財政に関する第6章でも大蔵省ないし財務省の権限役割どころか省庁の名称すら書かれておらず、国民の権利にもっとも直接的に関わる警察権についても憲法には「権限を有する司法官憲」とあるだけで、行使する行政主体の警察庁や警察官について憲法条文にはなんの直接言及もないのに、なぜか行政機関として唯一自衛隊だけを明記するのは、明らかにおかしい。
逆に各行政機関とその権限の範囲が具体的に明記された、例えばドイツ連邦基本法のような憲法なら、「大蔵省」を「財務省」に、「通産省」を「経済産業省」に改組したり、「文部省」が「文部科学省」になってその傘下に「スポーツ庁」を設置するだけでも憲法改正が必要になる。だからドイツは基本法改正が多くて戦後の日本で憲法改正は一度もなかったのは、手続き論上しごく当たり前の話で、安倍首相が言い張るように異常でもなんでもない。逆に「防衛省」についての記述もないのにその傘下の行政組織でしかない自衛隊だけが憲法に明記されるのだとしたら、そんな論理的な展開の順序にも整合性にも欠如した憲法こそが異常でみっともない。
憲法に明記される唯一の行政機関が自衛隊?
抽象的な一般論のみを記した日本国憲法の(というか、大日本帝国憲法以来の日本の憲法の)特性からして、実際の運用はその多くの部分を条文をどう解釈して具体的な立法とするのかに委ねられている(だから条文では「法律に定めるところにより」が繰り返されている)。ドイツ連邦基本法のように具体的な記述が多く解釈の幅があらかじめ狭められている法体系とは、そもそも基本的な考え方が違うのだ。この違いが分からず改正の回数だけを持ち出すのも、いかにも安倍さんに全体像や文脈を認識する知能が欠如していることを端的に示している。「木を見て森を見ず」の世間知らずで頭が悪い、認識の構造が幼児レベルとしか言いようがない。
そんななかで行政機関のうち自衛隊だけが特例的に明記されれば、その解釈運用は個々の条文の字義的理解だけでは済まず、複雑で不可解な入り組んだ解釈のアンバランスさを日本の法体系に持ち込んでしまう危険性がある。言い方を変えれば、自衛隊にいきなり「国権の最高機関」である国会の衆議院や参議院、あるいは内閣や最高裁判所と同等で(以上は憲法条文に直接言及がある)、各省庁(憲法はなにも定めていない)よりも上位の憲法上の地位が付与されているように読解されかねなくなるのだ。
代表質問の答弁で、安倍首相は自分の提案する9条改憲案では自衛隊の実際の立場や役割は変化しないと述べ、そこで希望の党から「ならば立法事実がないので改憲は不要」と指摘されたのはその通りなのだが、自衛隊が明記されるだけでも、特にそれが憲法の第2章というかなり早い部分の9条であるのなら「自衛隊の立場や役割は変わらない」、だから安心していい、とはならない可能性もある。
極端な例でいえば徴兵制の問題だ。従来の政府見解は18条の奴隷的拘束、刑事罰目的以外の苦役に当たるので違憲としているが、同様の条文は徴兵制を採用しているたいていの国の憲法にもあるので、信頼できる根拠とは言い難い。この18条も含む第3章の国民の権利や国会(第4章)、内閣(第5章)、最高裁(司法に関する第6章)の権限役割より前の第2章に自衛隊の権限と役割が憲法上で定義されてしまえば、徴兵制も合憲という恣意的解釈もいくらなんでも曲解が過ぎるとはいえ成り立たなくはないのだ。だからこそ9条に明記すべきなのは「自衛隊」ではなく「自衛権」の定義で、そもそも現行憲法では国家の自衛権の行使は国権の発動なので認められず(「自衛権は自然権」だろうがなんだろうが、「国権」つまり国の権利である以上はアウト)、自衛隊の根拠は国民の自衛権だ。
また第2章の章立ては現行では「戦争放棄」だが、ここに自衛権を明記するだけならともかく自衛隊を書き込むのであれば、ここは「戦争放棄」ではなく「安全保障」に変えるべきだという議論も当然必要になる。こと軍事力の行使の禁止ではなく自衛権があることが強調される条文になれば、「戦争放棄」を言うのは見え透いた羊頭狗肉の稚拙な詐欺にしかならないからだ。もし安倍さんがそこに違和感を覚えないのであれば、この人には虚偽や事実に反することを不快に感じる、正義感や倫理観や美意識と深く関わる心理がなぜか欠如している可能性も出て来る。あるいは精神医学の分類でいえば、顕著な虚言の傾向が指摘できてしまう。
なお自衛権の定義とそこに課せられる制約ではなく自衛隊を9条に明記してその権限役割を定義してしまえば、憲法の全体構成上、自衛隊は国会の参議院や衆議院、最高裁判所や内閣以上の権威ある地位を持つという解釈も成立し得る。これでは自衛隊は厳格なシビリアン・コントロールの下に置かれるという現行の法制度自体が揺らぎかねないし、少なくともその制度的実態からはかけはなれて、条文の順番通りに読むと意味が通らない、いかにも奇妙で読みづらい憲法が出来上がってしまう。
もっとも、そんないい加減な憲法の方が、解釈が融通無碍の抜け穴だらけになるので、安倍さんにとっては理想の憲法なのかも知れないが、それが「国の形」「理想の姿」で「美しい国へ」と言うのなら、安倍さんの意識の構造は完全に破綻している。
「改憲」なのか「新しい憲法」なのか、コロコロ変わる二枚舌
だいたい安倍さんは「改憲は50年以上自民党の党是」だとも言っているが、これは「自主憲法の制定」の間違いではないのか?
2020年の東京オリンピックに合わせて「新しい憲法」で「新しく生まれ変わった日本」という妙に威勢のいい感傷的な印象操作に走るわりには、その中身が現行憲法の一部の条文の改憲に過ぎないというのも、あまりにもちぐはぐだ。
自民右派に根強い「押しつけ憲法論」を打破したいのなら、個別条文を改憲したところで日本国憲法は日本国憲法のままで、これまた史実とは著しく異なる偏向歴史観にせよ「GHQの押しつけた憲法」の骨格はそのまま残る。
ここにもまたもや「木を見て森を見ず」、ものごとの全体構造が認識できない安倍さんの知的能力の限界が露呈しているのではないか? 個別条項の部分的改憲だけでは、全体が「新しい憲法」になるはずも、まして日本が「新しく生まれ変わる」はずもない。安倍さんの9条改憲案では確かに9条は骨抜きになるが、本人の言う通り自衛隊の役割や権限が変わらないのなら、それこそ実際にはなにも変わらないのに「新しく生まれ変わる」とは、いったいどういう馬鹿げた現実離れのファンタジー世界なのか。まるで9条の字句文言を魔法か呪いのお札と勘違いでもしていて、それをなんとか引っぱがしたいという呪詛アニミズム政治めいたカルト性すら漂っているように見える。
いやもちろん、安倍さんが提示している改憲案は、そのいずれもが現行憲法に書き込まれてしまった時点でその骨組みがガタガタに歪み、いびつなパッチワークに堕し、実際には骨抜きになってしまうのはこれまでも述べて来た通りだ。そんな詐欺的でいびつな代物でもって「新しい憲法」と言うのはそれこそ無理があり過ぎる。単に骨抜きになった憲法の残骸みたいな形骸化して中途半端で論理破綻した、とっくに殺されていて腐敗が始まったような代物で「新しく生まれ変わった日本が、しっかりと動き出す」というのなら、日本が姑息な二枚舌の詐欺国家として生まれ変わることにしかならないのだが、それが安倍さんの言う「国の形」であり「理想の姿」なのだろうか?
「自主憲法の制定」を党是とする自民党は、野党時代に個別条項の「改憲」ではなくまるごと新憲法の草案を準備していたのではなかったのか? その時だって安倍さんは自民党の国会議員だったし、再び総裁になってからもその新憲法草案(「改憲草案」ではない)は破棄するなどとは一切言っていないどころか、「我が党は草案を出している」のに「対案」を出さない野党は云々(「でんでん」ではなく「うんぬん」)、議論に参加する資格がない云々とすら言っていたはずだが、その前言も自民党憲法草案も撤回するのだろうか? では安倍さん自身も「我が党が国民に問うた」と言っていたはずのあの草案は、いったいなんだったのか? 自分の言っていることがコロコロ変わっている自覚すら、この人は持てないのだろうか?
そもそも「改憲」の自己目的化は無意味な倒錯
いやそもそも、「改憲」が議題で「対案」を出せ、という安倍論法自体が倒錯しているのは言うまでもない。「自主憲法の制定」を「改憲」と安倍さんが(ものごとの全体像を理解するだけの知能がないので)いかに混同して話をスリ替えようが、それでも「自民党の党是」は自民党の勝手でしかなく、国家や国民の総体をそこに巻き込むのは本末転倒だ。もちろんこうした本末転倒も安倍さんにはおなじみで、全体のなかに個々の具体や細部を位置づけする知能がないのだからしょうがないのではあるが、そんな知能の劣化した身勝手に国民が付き合わされるのではたまったものではない。
現行憲法そのものが気に入らないのなら新しい憲法を作るべきだし、「改憲」ならば具体的に個別の条項が前文の国家理念に照らして瑕疵があったり、前文に書かれた理念の実現には現実に使えなくなっている場合に限るのが、普通の、ごく当たり前の、近代民主主義の立憲国家の基本的な枠組みだ。逆に言えば具体的な不便や不都合を指摘できないのなら、「改憲」の議論を始めること自体がおかしいし、不戦・戦争放棄や基本的人権の尊重の国家理念や三権分立の基本構造そのものを変えたいのなら、丸ごと新しい憲法を提案するべきだ。
自衛隊の明記にせよなんにせよ、改憲によってなんらかの具体的な国家や法制度の改善がないのなら、「立法事実がない」で改憲議論自体がただの無駄だし、9条改憲について安倍さんの言うように実際の自衛隊の権限や役割はなにも変わらないのなら、現行憲法に法制度としてなんの問題もないので変える必要もない、という論理的帰結にしかならない。
たとえば24条の結婚についての「両性の合意」は、人間の性自認が男女の両性に留まらない複雑で多様なものだと科学的に解明されつつあり、社会の認識もそれに応じて変化が求められているなかでは改正する意義はあり、同性婚の実現という具体的な立法事実もある(賛成か反対かの議論はそこから先の話)。
衆議院の解散についても、現行の条文では内閣不信任決議が通った場合を除けば、第7条の天皇の国事行為としてしか記述がないのは不備だと言える。むろん憲法の全文を常識的に読解する限りでは、内閣不信任が可決されるのに準ずるような事態でなければそうそう内閣が解散なんてするわけがないのだが、確かに条文のままでは曖昧なので抜け道曲解が可能で、濫用するかしないかは総理大臣の良識に期待するしかないのが現行憲法だ。これは法制度という観点で言えば確かに不備だし、実際に解散権を濫用する(厳密には内閣が解散するのではなく、7条解散なら衆議院を解散しているのは天皇の国事行為だが)総理大臣が出て来ていれば、改正を議論すべき立法事実はある。これがまともな日本の保守主義者であれば、畏れ多くも天皇の御名御璽を頂く解散詔書を濫発するのは不敬であろう、と厳に自己を戒めるはずではあったのだが。
日本国憲法では前文で全人類に普遍と明記されている基本的人権についても、日本国の主権者に限られる項目、たとえば参政権についても、共通して「国民」という用語が使われている。人権はもちろん人類普遍なのだから、当然ながら日本国憲法の施行範囲である日本国内では日本国民に適用されるという論理構造でまともな読解力があれば問題はなく、論理的に敷衍すれば日本国内にいて日本政府の施政権下にある外国人に適用されるのも当たり前なのだが、安倍さんのように「木を見て森を見ず」の歪んだ主観で字句だけに反応して全体の文脈と論理構造を認識する知的能力が欠如している国民を差別しないために、ここは25条の生活権も含めて「国民」という用語を再検討する改憲も議論する価値はあるだろう。
「改憲」はこのように、あくまで個別の条文に具体的な不備が認められて改善が見込める場合にのみ提起するものであって、それも前文に提示された理念の範囲内で行われなければならない(そうでなければ支離滅裂な憲法になる)。これだけでは国が「新しく生まれ変わる」となるわけがないことをまず、安倍さんにはちゃんと理解してもらわなければ困るというか、議論を始める価値すらない。
安易過ぎる感情論だけで改憲するなら、文明国でも法治国家でもない
そもそも安倍さんが提示している改憲を正当化する理由は、違憲かも知れないと言われるのでは自衛隊がかわいそうだ、という感情論だけだ。
しかも安倍さんは論理性を把握する知的能力がないので無自覚なのかも知れないが、ここにはとんだ詐欺ロジックも入り込んでいる。安保法制が違憲、笛基地攻撃能力の保有は違憲、巡航ミサイルの保有は違憲の疑いを払拭するために議論が必要、専守防衛しか憲法上認められないと言うのは、いずれも自衛隊が合憲であるという前提に立った議論で、「自衛隊を憲法に書き込めば合憲になる」という幼稚な珍論とはまったく次元が異なり、なんの関係もないのだ。
群馬県草津の白根山の水蒸気噴火で自衛官が亡くなると、なぜか犠牲者を含む自衛官が円陣を組んでどこぞの親子を守ろうとして、それで自衛官に死者が出たという根拠不明どころかありえない話(自衛官の訓練が一般スキー客に混じって行われているわけがない)を元衆院議員がネット上で流布し、「こんなに頑張っている自衛官が違憲扱いではかいわいそうじゃないか」というあまりに幼稚なセンチメンタリズムの珍論で安倍熱烈支持層が盛り上がっているらしい。
法律、それも基本法を論じるのにこんな薄っぺらなお涙頂戴しかない論理倒錯で、そこに見え透いたデマまで動員されること自体がどうかしている。法はあくまで事実・真実に基づいて運用されなければ司法制度が破綻し社会の治安も崩壊するというのに、いったいどこまで浮世離れした、幼稚な夢物語の世界に引きこもった人々なのだろう?
あまりに現実離れしていてしかも客観性ゼロの私的感情しかなく、反知性主義も極まれりでしかないのだが、こうした悪ふざけとしか思えない頭の悪い珍論を大真面目にふりかざす人達の心理の根底にあるのは、憲法の掲げる(というより憲法により国家政府に対して義務づけられた)人権の保護・擁護について、差別を受けるマイノリティや、25条の「生活権」を根拠に生活保護が受給できる貧困層など、自分達以外の人間ばかりが憲法に「えこひいき」されているように思い込んだ嫉妬のようだ。
たとえば「権利ばかり主張して義務はどうした」という珍妙な言いがかりも、やはりこうした小学生レベルの嫉妬の心理で説明できるだろう。
差別される人たちは「かわいそう」だから憲法で守られるべきだと「人権派」が言うのなら、自衛隊だって「かわいそう」だと言えば不公平だからと改憲が認められて、「弱者」の味方ぶった「サヨク」をぎゃふんと言わせられるはずだという小学生の反省会みたいな奇妙な理屈が、こうした主張の基本的な倒錯論理構造として指摘できる。
だがこれはそもそも、とんだ勘違いなのだ。たとえば泥棒や詐欺に遭えば警察が犯人を探し出して、裁判で処罰されるのも、憲法が私有財産権の保護を国に義務づけているからだ。その処罰もまた自由権や幸福追及の権利が「公共の福祉」によって制約され得ると憲法が規定しているので懲役刑に処すこともできる。刑法を直接の根拠に警察は捜査を行い、裁判所が処罰を決め、政府がその処罰を遂行する責任を負うのだが、その刑法はなにを根拠にしているのかと言えば、基本的人権を保護する義務を憲法が国家政府に課しているので、国会が刑法を定め、それに基づき国民生活の安全な秩序を守る義務が行政府に派生するからだ。
憲法がいい加減なら犯罪者の処罰すら正当性がなくなるのが「法の支配」
自分たちが憲法の恩恵に預かっていないと思い込んでいる人達が安全に日本社会で生活できていて、憲法により推定無罪原則で被疑者の権利が保護されることに「犯罪者なんだから処罰すればいい!加害者の権利だなんてふざけるな!」と安全圏で文句を言っていられるのは、その文句を言って憲法や人権を嫌悪している人達の人権を保護する義務を、憲法が政府に課しているからなのだ。ちなみにこうした人達が「加害者の権利」と思い込んでいるものの多くは「被疑者の権利」の勘違いなので、そこも注意して欲しい。
「犯罪者なんだから処罰されて当然だ!憲法がどう関係するんだ!?」と息巻く人がいるとしたら、その人は「法の支配」を理解していない。そもそも「犯罪者」かどうかは法によって決まるもので、「犯罪者だから処罰」ではなく、憲法の人権保護義務に従って「他人の人権を不当に侵害したから犯罪」となるのが「法の支配」だし、それを定めているのは究極的には刑法ではなく憲法だ。憲法が個々人の人権の保護を定めているから人権を侵害することが犯罪になるのでなければ、刑法が想定していなかった犯罪が発生した時にそれに対応して刑法を改正する根拠もなくなる。憲法が基本法であるというのはこういうことだ。
逆に言えば、もし憲法が人権の保護を国家政府に義務づけていなければ、警察は犯罪をわざわざ捜査する法的な義務を負わない。まさか「あいつは犯罪者だ、憎い」というあなた方の個人的な感情に過ぎないものを警察や司法が無条件で忖度してくれるのが当然だ、などと甘い考えを信じ込めているとすれば、あまりに世間知らずの現実離れした、ネット上で好まれる用語でいえば「お花畑」でしかない。
「何を言うんだ!泥棒や人殺しは大昔から犯罪者で罰せられている!その時代には人権なんてなかったはずだ!!」と言い張る人は、そもそも「人権」が理解できていない。日本なら「人の道に反する」、西洋なら「あらゆる人間は神の前に平等で神の創造物」といった理念や規範で表現されていた、人間社会の歴史に共通して普遍的な原理を「人権」いう概念で定義づけるようにしたのが、近代の西洋啓蒙思想以降の思想史であって、「人権」という言葉が使われるようになるはるか以前から人権は常にあったし、憲法が定めているのは国家がその人権を守る義務であって人権そのものではない。
「法の支配」とは権力が法に従うことだと理解できない自民党二世三世議員
9条に書き込むのなら「自衛隊」ではなく「自衛権」の定義とそこに課せられた制約だという当たり前の法律論を言うと、「なんで制約ばかり書かなきゃ行けないんだ!自衛官がかわいそうじゃないか!」という珍論も出て来そうだが、そもそも法律とは最初からそういうものだ。ポジティヴ・リストつまり「やっていいこと」を書き込むと際限がない(現時点で誰も気付いていないことを後に気付く者がいて、そこで「法律でやっていいと書いてないからやってはいけない」という議論が出て来るのは明らかな不合理)ので、基本はネガティブ・リストつまりやってはいけないことのリストアップでそれ以外は自由、とするのがハンムラビ法典や秦の始皇帝の古代から法律の機能だ。
たとえば捜査権は第4章の「司法」で厳格に規制されているが、これがネガティヴ・リスト(やってはいけないこと)になっているのも気に入らないのだとしら、それは幼稚な感情論に囚われて論理構造が見えていないからだ。人権侵害になる捜査手法が禁じられているのは、それ以外であればどんなやり方を新たに考えついて実践してもいい、ということでしかない。
もちろん心から善良で正義感にあふれた警察官もいるだろうが、ならばその警察官はどっちにしろ憲法に定められた捜査権限の制約を逸脱する気がないのだから憲法を邪魔とは思わないのは、普通なら人を殺そうなんてめったに思わない(あるいは、良心の作用でその欲望を自分で抑制できる)ので刑法の殺人罪がほとんどの人間にとってまったく自由の制約に実際にはならないのと同様だ。
安倍さん達にはネガティブ・リストとポジティブ・リストの区別がつかない(もっと言えば十分条件と必要条件という中学の数学レベルの論理学が分かっていない)のはまったく困ったものだ。逆に基本的人権のポジティヴ・リストとして構成されている第3章の「国民の権利」は、公明党の一部などから出ている「加憲」論で「環境権も書き加えるべきだ」と言った主張もあるように、カバー出来ていなかったものが次から次へと出て来る可能性があるので、法律ではその法の主旨上どうしても必要でない限りあまり用いない方がいい論理構造なのだ。
だいたい警察官なり自衛官の職務が憲法によって規制されることが「かわいそうだ」と言い張るなら、そういう自己投影(実は自分の深層心理でしかないことを勝手に他人に当てはめて考えてしまうこと)の根源にあるのは、相当に危険な願望ではないか?
いやまあ確かに、人を殺さないのは単に「犯罪者」になりたくないから、というだけの人もいるだろう。法律というのは直接的には、そういう人達の危険な願望なり欲望なり動機に対する抑止力の機能が期待されるものでもあり、そうしたあなた方の人を殺したいと言った自由意志に対する制約が法論理で正当化されるのは、憲法が人権の保護を国家政府に義務づけており、あなた方のそんな自由は公共の福祉によって制約され得る、という論理を取っているからだ。良心が働かず、自分の自由意志では殺人なり他人の人権を侵害するなり、身近なところではたとえばネットで虚偽を流布して他人を中傷したり気に入らない相手を匿名で攻撃して自己満足に浸りたがるような欲望を抑えること(ちなみに名誉毀損罪などなどに基づき違法性・犯罪性が高い)ができない人ならば、その自由意志を法で制約することはさすがに誰が見ても「公共の福祉」に該当するだろう。
権力を制約することは、別に近代の立憲主義やリベラリズムに固有の発想ではなく、保守主義の根幹そのもの
保守系の憲法学者の、たとえば元々は改憲論の雄だった小林節氏や、自衛隊合法論の第一人者と言っていい長谷部恭男氏が安倍改憲を批判するのは、まず憲法の意味が分かっていない荒唐無稽と感情論しかない改憲論では厳しく批判するのが当たり前の学者の良識なのだが、こと小林節氏は自分が現行憲法擁護を唱えることに考えを改めた理由を赤裸々に告白している。何度も自民党の憲法勉強会に呼ばれる度に、その国会議員たちに「なぜ憲法というのは国民には権利ばかりで、俺たちのことは制約や義務しか書いてないんだ」という主旨の不満をさんざん言われ、さすがに呆れると同時に危機感を抱いたというのだ。
思想的な枠組みで言えば、リベラリズムや自由主義や社会主義や社会民主主義のいわゆる「左派」は人間の自由な良心を全面的に信頼するのが基本であるのに対し、保守主義はそこまで人間を信用せず、その自由意志つまり欲望のままに任せるのは危険なので、法なり伝統的な倫理観なり文化教養に根ざした知恵による抑制を重視する。もちろん行使できる権力が大きいほど、それを抑制する道徳や価値観の制約はより重くあるべきだと考えるのも保守主義で、国民主権や民主主義の確立した現代では、保守主義は当然ながらポピュリズム批判に向かう。「大衆」こそが究極的に最大の権力を担っていて、そこが暴走すると社会の秩序が救い難いレベルで崩壊する危険が予想されるからだ。
20世紀において保守主義が共産主義と鋭く対立したのは、共産主義が「必要に応じた分配」を理想とし、科学的思考によってその必要が特定され、それが自由な人間の自由な良心の発露の総意で理性的に補完されるはずだという思想を根拠にしているのに対し、保守主義の観点では「しょせん人間の知性には限界があり、自分たちに何が必要かを判断する能力があるとは言えない」となるからだ。
中世や前近代であれば主に宗教や哲学、たとえば日本の前近代では儒教と仏教が欲望を抑制して社会秩序を維持する価値体系を構築していて、統治者は単に権力を行使するだけでなくそうした道徳について統治される側のお手本を自ら示さなければならないとされた。これは保守主義の統治論の基本でもあるが、近現代の国民国家においてはそうした単一の文化伝統による価値観を社会全体ないし主権者たる国民の総体が共有するのは困難になるので、成文化された法を中心とする論理体系でそれを担保しようというのが「法の支配」であり「立憲主義」というのが、大ざっぱな歴史的な展開になる。
あるいは古代国家の段階ですでに、大きな領域を支配して多様な立場の人々を統治下に置けば、既存の宗教や同族意識などで無意識に共有されて来た価値観道徳ではなく、明文化されて汎用性の高い法と制度による支配がなければ、国家自体が進歩を止めるかバラバラになってしまい、統一王朝的なものは維持できなかった。日本史でいえば大化の改新から律令の制定までがその成立プロセスに当たり、アニミズム論理に基づく神聖な司祭王である大王を中心とした豪族合議体制のヤマト王権からの脱却がその目標だった(まあこの場合は、当時の国際社会で「呪詛アニミズム政治をやってる時代遅れの野蛮国」とバカにされないため、でもあったが)。
言い換えれば、たまたま近現代だから政治家の権力の行使を制約するのが憲法なのであって、権力に制約が加えられること自体は人類が国家らしきものを組織し始めて以来の歴史上の普遍の原理だ。日本の前近代なら儒教の「徳」や「仁」、仏教の「慈悲」を持たなければ主君の資格がないとされ、江戸時代なら幕府はその厳しい論理を諸大名に徹底させた(ちなみに「明治維新」を主導した薩摩はちょっと違う。あそこは鎌倉時代からずっと島津家支配下で、江戸時代のあいだも「戦国時代」かそれ以前のままの軍国的メンタリティだった)。
大日本帝国憲法だって安倍改憲と比較しては伊藤博文に失礼
小林節氏を呆れさせた自民議員には世襲の二世三世が多いのだが、江戸時代の大名ならば世襲だからこそ跡継ぎになると分かっている嫡子は、あんな子供染みた身勝手は言わないように幼少時から徹底してしつけられたし、それでもうまく育たなければ藩が幕府に取り潰されて家臣が揃って浪人してしまうので、廃嫡されるか速やかに隠居させられるのが常だった。戦国時代ならもっと深刻で、そうして家臣や領民の支持を集めるだけの「徳」がない大名は下克上で淘汰されるならまだいい方で、他国に攻められて領民家臣共々血祭りにあげられてしまっただろう。つまり権力者の子に産まれたんだから好き勝手やっていいだなんていう自民党の二世三世が夢想しているらしい状態は、憲法の有無に関わらず歴史上存続できた試しがないのだから幼稚過ぎるバカは黙れ、で保守主義の立場では議論が終了となる。
リベラリズムの進歩主義的な歴史観に立てば儒教で権力の行使が抑制されるのと憲法の法的・制度的な規制では雲泥の差だとみなされるが、保守主義ではどちらも権力抑制の機能の点では変わらず、どっちが現実的に今の時代により有効かどうかが議論の対象になる。基本的人権を重視するリベラリズムの平等主義では、安倍さんのような頭の悪いへ理屈でも一定の存在価値を認めなければならないが、伝統の知恵を継承する教養を重視する保守主義に立てば「そんな子供じみたわがままの身勝手は世の中では通用しない」あるいは「人の道に反する」で却下できてしまうぶん、江戸時代のシステムの方がまだ実践レベルでは合理的だったのかも知れない。
なお儒教には本来、易姓革命原理があり、徳を失った君主の一族は淘汰されるのが天の摂理とされた。日本ではこの原理は曖昧に済まされた代わりに、天皇はほとんどの時代に、実権を持たない象徴権威でしかない存在として維持されて来た。
安倍さんたちの「改憲論」は大日本帝国憲法を理想としているかのように思われているが、これはさすがにこの憲法をそれなりに緻密に論理構成した伊藤博文に失礼というものだ。主権者は天皇であって政治家はあくまでその天皇の権威によって権力の行使を制約され、では天皇が絶対君主かと言えばよく読めばその天皇には政治的実権が実はないようにこの憲法には書かれていたので、結局は象徴権威としての「天皇機関説」がまともな解釈だった。
帝国憲法ですら統帥権の独立は本来、政治家の身勝手で戦争をさせないため
軍国主義の暴走を許した統帥権の独立ですら、本来は政党や政治家が自分たちの人気取りやスキャンダル隠しなどの恣意的な都合で軍事力が濫用することを防ごうとした規定だ。多々問題もあった大日本帝国憲法ではあっても、この憲法でさえその基本論理がちゃんと尊重される立憲主義が維持されていれば、満州事変からの15年戦争は起こらなかったのではないか。
法体系としての大日本帝国憲法の致命的な欠陥であり現に問題を露呈したのは、伊藤博文らが見落としていた抜け道から制御不能な暴走が始まってしまったところだ。こと日米開戦となると内閣にさえあんな勝てるわけもない戦争を本気でやりたがっていた者がいないのに、天皇自身も含めて誰も「負けるから止めよう」とは言えなくなっていた。昭和天皇は弟の高松宮に「このままでは国が滅びるので終戦を」と厳しく諫言されると、「天皇機関説」のロジックを持ち出して天皇大権の責任を行使することから逃げてしまっている(昭和天皇に儒教が君主に要求し天皇家が代々守って来た良心があれば、1943年初頭には終戦になっていただろう)。民権思想に立脚するかどうか以前に、ここまでデタラメな運用を可能にしてしまった時点で、大日本帝国憲法が欠陥憲法であったことは歴史的に実証されている。
いやまあ人間が作るものである以上は完璧な憲法はあり得ないという前提に立つのなら、この大日本帝国憲法体制の自滅は、本来は綿密に構成された論理を持つ憲法をちゃんと読み込んで解釈せず、その論理が大きな権力を与えられた側にこそ強い自制と責任感を当然ながら求めていることから逃げて安易で恣意的な抜け道を探してみたり、自分達の欲望の都合で強引に曲解していることに無自覚だったりすると、国家というものの集団心理が途方もない失敗へと自己崩壊を始める見本のような話だ。
またこの時代なら「日本は神国」だの「大東亜共栄圏」だのという薄っぺらなスローガンに踊らされたり(保守主義の知恵で言えばこんな美辞麗句の薄っぺらは本能的に疑うべき)、朝鮮民族や中国人への差別感情と優越感が満たされることに国民も悦に入ってしまい(日本の伝統価値観の保守主義では「人の道に反する」でアウト)、知性や論理を無視して抑制の知恵を忘却し、安易な感情論で憲法という知的体系を玩具にする自己満足に堕落することがいかに危険なのかという話でもある。
論理破綻して抜け道だらけの憲法にしたい安倍政権
以上は保守主義の観点からいえば、子供染みた感情論をふりかざすバカにつけ込む余地を与えてしまう点で、近現代の立憲主義が一見合理的に見えることもそう手放しに信用してはいけない、という教訓にもなる。
そもそも保守主義の観点では、なにかを合理的だと判断する個々人の能力を全面的に信用はできない(人間なので必ず誤りの可能性はある)ので、安倍さんのような全体像が見えていない「木を見て森を見ず」の珍論に至っては「頭が悪い」の一言で相手にしないで済む。これがリベラリズムや左派の立場であれば、どんなに頭の悪い間違いだと分かりきっていても、そんな安倍さんがいわば「知的弱者」だからこそ、その弱者が一生懸命考えたことまでは認めてあげて、一応意見として聞いてあげた上で「間違いですよ」と教えてあげる手間が必要になってしまうのは確かに面倒だ。
今年にもしかしたら大いに進展してしまいそうな安倍改憲だが、本当にこのままでいいのかを、感情やお祭り的な雰囲気に流されず、よく考える必要があるのではないか?
たかが憲法条文を数個変えるだけで「新しく生まれ変わった日本」になるわけがないし、オリンピックはただのスポーツの祭典であって国家的イニシエーションの祭礼ではない。だいたい日本が「生まれ変わる」必要があるのかどうかもよく分からないし、どっちにしろ「9条を変えたら日本が変わる」なんて安易なことが起こるわけがないのは当たり前で、こんな勘違いした「改憲祭り」を願望する子供っぽく浅はかなカルト的心性に踊らされて、日本国憲法が気がつけば論理構成がメチャクチャでひどく読みにくいいびつな切り貼りになっているなんていうのが日本の未来ならば目も当てられない。
いや安倍さんたちの自分でも無自覚な深層心理は、別に現行憲法だけが憎いのですらなく、自分たち特別な生まれ(親も国会議員の二世三世)の特別な人間のやりたい放題の「自由」が制約されることそれ自体を憎悪しているだけなのかも知れない。その象徴が戦後の日本では彼らの目には「日本国憲法」に見えたり、とくに「9条」に歪んだ憎しみの執着を持ってしまっているのだとしたら、彼らの願望は憲法に戦争ができる抜け道を騙して潜り込ませることですらなく、憲法そのものを論理破綻した恥ずかしい代物にすることでこそ、彼らの憲法や「戦後レジューム(安倍語、日本語では「レジーム」)」に対する積もり積もった逆恨みの私怨の復讐が満たされるのかも知れない。
だが言うまでもなく、こうして個人の、それもコンプレックスで歪んだ感情の発露を秩序や論理に優先させるのは、保守主義とは考えられる限りもっとも正反対の…ただの身勝手で幼稚ではしたない欲望の無節操な解放でしかない。そんなものまで「でも一生懸命考えてるんだから」と甘やかしてやる必要は、まともな保守主義であれば「そんな幼稚なわがままは世間では相手にされません」でバッサリ、で終わる。
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