相模原市の障害者施設殺傷事件の犯人側、被害者側それぞれが炙り出した「美しい国」の現状 by 藤原敏史・監督

「なぜ事件を防げなかったのか?」45人が襲われ19人が亡くなった、日本国内で戦後最悪の大量殺人となったショック以上に、まずこのわだかまりを禁じ得ない。事件の4ヶ月強前に、実行犯の植松聖は衆議院議長公邸に犯行計画を書いた手紙を持参している。それも一度は警備に断られたのが、翌日に再び訪れて、土下座までして受け取らせたというのだ。

昨今はネット上の軽はずみな悪ふざけの犯行予告でも公表・事件化し、威力業務妨害や脅迫などの罪状で厳しく対応するのが標準になりつつある。「○○を殺す」と言った漠然としたツイートや書き込みでも立件されるのに、詳細かつ具体的に大量殺人計画の内容を綴った手紙があったこと、しかも土下座までして受け取らせた本人の強い執念も当然危険視されるべきにも関わらず、警視庁から神奈川県警に内々に伝達されただけで、表面化も事件化も報道もなかったどころか、その植松聖があろうことか襲撃を予告していた津久井やまゆり園からわずか500m程度しか離れていない自宅に住み続けていたことは、住所が手紙に記されていたはずだ。

「テロとの戦争」だの「日本人に指一本触れさせない」などと政府が公言している国だというのに、いくらなんでもお粗末な話ではないか?

措置入院時に出ていた診断が、無視されたとしか思えない

問題の手紙と前後して、植松聖容疑者は当時の勤務先だったその津久井やまゆり園で「障害者の大量殺人は日本国の指示があればいつでも実行できる」といった類いの、攻撃性に満ちた言動が警察に通報され、措置入院になっている。

だがこの時にも衆院議長公邸への手紙が判断に勘案されていたかどうかすら、報道がどうにも曖昧でよく分からない。どうもやまゆり園側には手紙の存在だけは伝えられたものの、内容は伏せられたままだったらしい。他ならぬそのやまゆり園がターゲットとして挙げられている(しかも記された住所はその近所)のに、である。措置入院を決定した相模原市や診断した医師、入院先の担当医が、この手紙を見ることができたのかどうかも曖昧なままだ。

それでも、この判断を下した二人の医師の一方は、非社会性パーソナリティ障害の診断を出している。このような事件では典型的なケースだと真っ先に疑われるし、現に例の手紙もその可能性を強く裏付けている。だがもう一方の担当医は大麻使用に起因する精神症状が主な診断で、措置入院も結局は2週間弱で終わっている。

つまり非社会性パーソナリティ障害の診断は無視され、大麻精神症だけが入院計画・治療プログラムの対象になっていたのではないか? 現に報道によれば、大麻使用の反応がなくなったのと、本人が障害者は殺す的な意味の暴言について反省を口にしたことが退院の理由だった。

だとしたらとんでもなく非科学的な対応だし、その結果の惨状を鑑みれば悔やんでも悔やみ切れない。非社会性パーソナリティ障害(以前の診断基準では反社会性人格障害)の特徴のひとつは、平気で嘘をつくことだ。良心による躊躇がほとんど作用せず、外から見る限りは顔色ひとつ変えずに、客観的には嘘とみなされることを平常心で言ってしまえること、それが際立って共通する特徴のひとつで、俗語でいえば「サイコパス」、例えばかつてベストセラーになった一般向け啓蒙書の題名は『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著、森英明訳、草思社刊)だった。

植松聖が非社会性パーソナリティ障害だったのであれば、病院を騙せば退院できると気づけば、いかにも真摯そうに反省を装うくらいできてしまうし、嘘をつくときに躊躇している時に出てしまう表情の変化などもないので、一般的な印象だけでは見抜くことが難しい。なのに本人が反省を口にしただけで「治った」と判断したというのはちょっと信じ難いが、現に病院側は退院後は両親と暮らすという嘘も見抜けていない。つまり、非社会性パーソナリティ障害という診断が、まったく無視されたとしか考えられないのだ。

薬物使用を事件の原因と思いたがる誤り

植松聖が他にどのような危険ドラッグを用いていたのかまでは不明だが、大麻も、最近では「危険ドラッグ」に分類される薬物のほとんども、幻覚を起こしたり認知機能に作用するほど強い薬ではない。覚せい剤やコカイン、ヘロイン、LSDのような依存性の禁断症状や譫妄も起こらない。こうしたドラッグは気分を左右はするので、普段なら言えないことを気が大きくなって公言してしまうといった影響はあり得るが、障害者の強制的な安楽死計画などと称して大量殺人を自己正当化する危険で歪んだ思考それ自体は、この程度の薬物の作用として起こるとはまず考えられない。

だからこそ、ちょっと驚いてしまうほどずさんというか、理解しがたい素人同然の対応だったと言わざるを得ない。しかも退院後しばらくして生活保護を申請し、失業して収入も貯金もないのですぐに受給が決まっているのに、役所内での横の連携も取れていなかった。もちろん措置入院の記録も生活保護も、原則プライバシーが保護されるべき事柄ではあるが、役所の外にさえ漏らさなければ情報は共有されているべきではなかったのか?

人格障害(パーソナリティ障害)自体は、精神疾患のなかでそこまで重篤とみなされるものでないし、統合失調症(先天要因)や鬱病(環境からのストレスに起因・後天性)のような「精神障害」にも分類されない。日常生活を一見普通に送っているように見える患者が圧倒的に多く、そもそも精神科の診察も受けないままの患者がほとんどかも知れない。

非社会性パーソナリティ障害(反社会性人格障害)の犯罪

人間の性格は科学的に言えば「生まれつき」なのは大まかな気質くらいなもので、ほぼ生育環境で決定する。親子家族で性格が似るのは、ひとつの家庭という環境を通じて価値観の多くを無意識に共有しているからで、生物学的な遺伝とは現代の科学では考えていない。

人格障害(personaliry disorder)は遺伝性・先天性ではなく環境要因で、生まれ育って生活している環境によって極端にその人格や社会の認識が歪んでいるという意味で、現在の一般的に用いられる精神科の診断基準では精神疾患に含まれているものの、反社会性だけでなく依存性、自己愛性、境界性などなどの人格障害はいずれも「病気」とはみなせない、という医学的な意見も根強い。

むしろ「そういう性格の人」と言えてしまいそうなことだし、そうした性格傾向それ自体なら、いわゆる「健常者」でも、誰であろうが大なり小なりは必ずある。たとえば反社会性の傾向がまったくなく、ひたすら従順なだけの人間がいたらかえって不気味なまでに無個性で、それはそっちの方がおかしいだろうし、今度は依存性パーソナリティ障害か、他のより重度な精神障害が疑われる。かといって正誤や倫理的な判断に当たってまったく周囲や社会を気にしない独善が危険なのも言うまでもない。

それでも世の中には勝ち気で個性が強くリーダーシップを取るのに向いている人、従順で言われたことを忠実にこなす人、周囲の注目を浴びる人気者やみんなに可愛がられる人、マイペースの一匹狼タイプ、頑固に正論を言う人もいれば間違いをなかなか認めず自惚れが強い、といった様々なタイプの人間がいて、その性格の偏差自体はまったく「疾患」どころか、「欠点」とみなされることすらまずない。

ドラッグ使用や精神疾患への偏見が放置してしまった病的な悪意

あらためて念押ししておくが、植松聖に大麻などのドラッグ使用があったと言っても、この犯罪は覚せい剤の禁断症状から譫妄状態に陥った人間が起こした通り魔殺人などとはまったく発生のメカニズムが異なるし、現にその犯行にもそのような特徴がまったく見られない。

犯行計画自体は冷静で、システマティックですらあり、責任能力が問題になるような精神錯乱や譫妄状態は認められないだろう。ならば典型的な反社会性人格障害(非社会性パーソナリティ障害)に起因する事件と考えるのが合理的で、大麻などのドラッグはせいぜいが気を大きくして犯行への躊躇のハードルを多少は下げる程度にしか作用していないとみなすのが、普通に科学的な考え方のはずだ。

なお意識的な行動が奪われ責任能力の有無が疑われるような状態は、非社会性パーソナリティ障害それ自体が理由では、まず起こらない。むしろいわゆる健常者より冷静で、淡々とすらしているかも知れない。

日本では薬物使用に対する社会的な抵抗感が極めて強く、だからドラッグの蔓延が他の先進国と較べて圧倒的に少ない水準に抑えられていること自体は安心できるのだが、しかし一方ではそれが社会全般に共有された強い偏見ともなってもいる。この事件に関しても報道で出て来る識者のコメンテーターは薬物使用のことばかり語ろうとしているし、実際に対応した精神医療の現場でも、薬物症状にばかりに注視するあまり、より危険な暴力犯罪に至る可能性を考慮して然るべきパーソナリティ障害という診断を無視していた疑いが拭えず、その誤った判断こそが事件につながってしまったと考えざるを得ない。

また薬物使用への厳しい眼の一方で、日本社会では精神疾患への偏見と忌避もまた極端だ。精神疾患の診断やその可能性を考えること自体が当事者の名誉を毀損するかのようにみなす傾向も強く、ことパーソナリティ障害のような確定診断が簡単ではなく、しかも薬物などに依拠した治療では対処できない疾患については、診断自体が忌避されがちだったりもする。

実際には依存性人格障害や自己愛性人格障害の社会不適合が問題だと医師が気づいても、その診断は下さずに鬱病の診断で抗鬱剤を処方するだけで済ましているのではないかと疑われるケースも、たとえば一時流行語になった「新型うつ」には少なくなかった(逆に言えば「新型うつ」とされた特徴的な行動パターンが、依存性や自己愛性の障害の典型症例にかなりの部分合致する)。こうした精神衛生や精神疾患、精神医療をめぐる社会全体のかなり偏った認識と根強い差別意識のタブー視もまた、この事件を未然に防ぐことを結果として阻んでしまった。

日本の精神医療の体制ではパーソナリティ障害の治療は難しい

生まれ育った環境に起因するパーソナリティ障害は、根気づよいカウンセリングで患者に自分の生育や生活の環境を客観視できるように誘導し、その結果としての今ある自分を自覚させること以外の抜本的な治療はない。それだけでも手間も時間もかかり医師の技量が問われる上に、近年多少は改善はされたものの、薬を処方したり具体的な処置がない治療は従来は医療保険の点数が低く、丁寧に話を聴き観察して診察に時間をかけることは、なかなか病院側の収入にならなかった。

しかもそのカウンセリングも、まったく効果がないどころか却って悪化を招くかも知れない危険性すら、こうした精神疾患の場合には勘案しなければならない。

単純化した極論をあえて言えば、非社会性パーソナリティ障害があるのなら医者の言うことなぞ聞かないか、せいぜい適当に話を合わせるだけ(なにしろ「嘘をつく」ことに躊躇がないので)に終始して徒労に終わりかねないだけならまだいい方で、それこそ医師や病院関係者が暴力的な憎悪の対象になって命すら脅かされかねない。

依存性パーソナリティ障害なら、ただ医師を依存対象にするだけかもしれない。

自己愛性パーソナリティ障害であれば延々と口答えを続けて聞く耳を持たない堂々巡りになる可能性が高い。

最初から診断を下さない医師の方が多いとしても不思議はなく、とりあえず「広汎性」や「境界性」と診断して、適当に精神安定剤や抗うつ剤でも処方しておいた方が病院経営にはプラスなだけでなく、診断を確定するだけの話を聴き出せないので無難で慎重な、正しい診断だ、ということにもなり得る。

非社会性パーソナリティ障害(反社会性人格障害)は日本人の場合ならその生育環境、つまり生まれ育ち生活している日本社会という環境の文化的なあり方からして、比較的少ないと考えられている。ちなみに対照的なのはアメリカで、反社会性人格障害の診断例がかなり多く、逆に従来日本に多いと従来言われてきた依存性人格障害は、そのアメリカでは症例が極めて少なく研究対象にもなりにくい。

日本に多いとされるのは依存性と自己愛性の人格障害

日本人なら大なり小なり、たいがいは依存性の予備軍ではないか、という極論すら精神医療の分野にはある一方で、最近では自己愛性人格障害を疑わせる事件や人間関係の軋轢が増えているとの指摘も無視できない。たとえばDVの加害者側には自己愛性人格障害があったり、被害側の極度な依存性がDVを誘発している場合や、被害者加害者の双方に依存性が強く共依存になっていることが多い。

また日本社会で学校だけでなく今や会社組織などにも広がっている深刻ないじめ問題でも、集団の欲望に個人の倫理的判断が無効化してしまう極度の依存性との関連が指摘される。

一方で医療ミスが隠蔽されたまま同じ医師が連続して死亡事故が多発したような事態や、弁護士の犯罪には、自己愛性人格障害が関連している可能性が高い。高学歴で社会的地位の高い資格とプライドの意識の関連は自己愛性人格障害の温床となり、その大きな特徴の一つは自分の失敗や限界の自覚を忌避することだ。

腕に自信があるのではなく自己愛性人格障害があるので一見自信に満ちて見える医者は(この見分けは非常に難しい)手術の失敗を自分の失敗と認めることを拒絶するし、失敗の自覚から逃避するために度を超して頑固になり、常識的には通用しないいいわけでも高学歴などの権威性を盾にしたへ理屈で無理矢理押し通してしまうし、そういう人格破綻した行動に巻き込まれれば周囲もまたミスや責任の所在を見落としがちになるのは、こと依存性傾向が元から強い日本の組織ではありがちだ。自己愛性人格障害と依存性人格障害という最悪の組み合わせが引き起こした組織の腐敗や隠蔽事件が極端に多いとすら言えてしまうのが、日本社会の現状でもある。

そのような、元々依存性傾向が強い社会を生育環境に適応して、正しいかどうかよりも「みんなが言っている」を優先する心理に染まってしまうのであれば、逆にそこへの怒りや憎しみが増大することが大きく関与するはずの非社会性パーソナリティ障害は、よほど社会から孤立してしない限りは逆に起こりにくいだろう。「和を重んじる」ことは依存性を助長するという危険性も内包しているのだが、そういう社会ではしばしば自己愛傾向の強さがしばしば周囲の配慮で許容されてしまいがちだ。いわば「なあなあ」で済まされて自己満足が無批判に放任される過保護状態は、自己愛性の傾向を助長し兼ねない。そんな状況下では高学歴・有資格者のエリート職業にある者なら自信満々なままで周囲や社会への不信や敵意が産まれる契機がなく、従って自己についての強烈な自信の強度(つまりプライドの感情の強さ)から、憎悪の感情の暴走や暴力的な衝突を辞さなくなる非社会性パーソナリティ障害は、日本では比較的起こりにくいのではないか、と推論されて来た。

有名な例はハンニバル・レクター博士、非社会性パーソナリティ障害とはどんなものなのか?

こうした人格障害の一般的な俗称で、狭義にはとくに非社会性パーソナリティ障害(反社会性人格障害)を指す場合が多い言葉が「サイコパス」だ。こう言われるだけで日本では漫画や映画やテレビドラマのフィクションのように思われがちで、またその日本映画でも「サイコパス」の設定が意図されているらしい人物は、しばしばファンタジーだけに基づく「絶対悪」「とにかくキチガイで悪い奴」の、動機が皆無の快楽殺人者的な(というか猟奇的な殺人シーンを演出したい作り手と、それを見たい観客の快楽に即しただけの)厚みもリアリティもないキャラクターにしかなっていない場合がほとんどだ。

非社会性パーソナリティ障害の傾向が強いとされるアメリカとなると、一般的な認識の普及レベルなども含めてずいぶん様相は異なるので、娯楽向けのフィクションでもよりリアルな描写が求められる。アメリカ映画の登場人物で「サイコパス」と言われてまず思いつくのは『羊たちの沈黙』『ハンニバル』『レッド・ドラゴン』のハンニバル・レクター博士だろう。この場合は非社会性パーソナリティ障害がしばしば知能が高い(ゆえにプライドも高い)人に起こり易いことを逆手にとって、悪役が社会権威の鼻をあかしてその硬直や腐敗を暴く説話構造が優先されていて、レクター博士の人物造形にこの障害の特徴はちりばめられている一方で極端でスーパー・ヒーロー的でもあり、その点ではやはりファンタジーではある。

一方で、アメリカ映画には非社会性パーソナリティ障害が疑われる現実の事件の映画化もある。たとえば1998年に発覚した捏造報道事件を映画化した『ニュースの天才』(2004年)では、一見魅力的で誰にでも好かれる青年記者スティーヴン・グラスが、作り話なだけに分かりやすくセンセーショナルな記事で成功や評価を得ることに病み付きになり、その嘘がバレないように嘘を重ね続けて収拾がつかなくなる行動パターンに陥って行くまでが、意図的に軽妙なタッチで演出されている。評価を得られるから捏造記事を書き始め、その評価に高揚してしまう主人公の心理は観客にとって理解可能なだけでなく共感すらしてしまい、その場その場ではよく分かる心理が積み重ねで極端化し暴走していくことで到達する破綻が、現代社会への警鐘として最後に響くように構成されている映画でもある。

あるいは、リーマン・ショック以前ではウォール街で最大の金融詐欺事件を起こしたジョーダン・ベルフォートの実話を映画化した『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2014年)も、成功体験のアドレナリン分泌の快楽への依存とコカインなどの強いドラッグの使用が、相乗効果的に非社会性パーソナリティ障害的な心理を引き起こし、それがもともと強い倫理観であるとか良心から来る躊躇なぞない方が成功できる金融証券業界にはむしろ適合していたため、際限のない不正取引が膨張して行く過程の映画的表現として見ることができる。

どちらの実話も、殺人などの過剰な反社会性の暴力の行使には至らないが、自分に倫理観が欠如しているかそこに欠陥があることに無自覚なまま「一線」を超えてしまった事件であると同時に、その映画化作品は、アメリカ社会自体がこうした逸脱に至りかねない価値観を持っていることを批判的に見せつけてもいる。

文学や映画が注目して来たサイコパス

いわゆる反社会的なサイコパス、非社会性パーソナリティ障害とそこに起因する暴力が文学や映画にとって魅力的なテーマなのは、ハンニバル・シリーズのようなエンタテイメントに限らない。とくに優れた作品であれば、そうした症例があまり身近でない日本人にとっても専門家の抽象的な説明だけよりも理解を大きく助けることにもなるのかも知れない。代表的な文学作品といえば、古典ならシェイクスピアの『リチャード三世』と、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが挙げられるだろう。

歴史を見る限り、こうしたサイコパス的な行動原理が国家を左右するような権力闘争や戦争のコンテクストならともかく、平時に、一般市民による唐突な大量殺人に至るのは、どうも近代以降に顕著になった現象のようだ。史実かどうか疑問もある古代ローマの皇帝ネロやクラウディウスといった例を除けば、歴史記録に残る最古の例は1835年のフランス、ノルマンディーで起きたピエール・リヴィエールの一家惨殺事件だとされ(裁判記録が残っていて、1970年代に哲学者ミシェル・フーコーにより出版されている)、フィクションでは『罪と罰』のラスコーリニコフの犯罪は近代社会が始まりつつある時代だからこそ成立している。

その近代主義が発展爛熟した現代の文脈で、人物造形の深いリアリティからも理解の一助になるのが、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の監督マーティン・スコセッシと組んで俳優ロバート・デ・ニーロがしばしば演じた、反社会性が病理に陥るぎりぎりの一線にいるか、それを踏み越えてしまった人物たちだろう。ブラック・コメディの『キング・オブ・コメディ』(1981)ですら、実は成功し有名になることが最優先されるアメリカ社会における反社会性のサイコパシーの原因と結果をめぐる映画だった。なかでも『タクシー・ドライバー』(1976)と『ケープ・フィアー』(1991)は、今回の事件にも通ずる極度の暴力性を直接に扱っている。

パーソナリティ障害にありがちな、まったく無自覚な行動の矛盾

こと『タクシー・ドライバー』は、その暴力の暴発に至る心理の醸成プロセスの描写が極めて緻密だ。本人にはまったく無自覚な、孤独感に苛まれているはずが逆に自分をどんどん孤独と暴力性に追いつめる、その矛盾した行動原理が背筋が凍るほどリアルなのは、ここまで極端でなくとも我々が(とくに男性の場合)原理的には同じようなことは案外やっていると思い当たるところが多いからでもある。

たとえば、主人公は自分が好かれたいと思っている女性に嫌悪されるようなことをわざとやってしまい、当然のごとく嫌われることで孤立を強め、ますます被害者意識と社会の不当さへの憎しみを増幅させつつ、その感情自体に無自覚なまま自分の暴力の自分なりの「正義」や「運命」ないし「必然」を確信して行く。

植松聖容疑者についても、上半身一面の入れ墨が津久井やまゆり園に就職する際にネックになっていたのに、夏になると短めのTシャツや胸が開いたシャツを着ていて入れ墨がはみ出て見えていたという証言もあり、そして本人のブログでは、入れ墨が「バレた」ことが退職させられた理由として書かれている。その含意は、本人の思い込みでは自分は不当な偏見の被害者だということになるが、客観的に見れば自ら無自覚に、しかし意図的かつ挑発的に、自分をそこに追い込んでいる。

ここまで極端でなくとも、男の子が好きな女の子に意地悪をするパターンであるとか、年齢差や美貌などで自分に不釣り合いだと思っている「高嶺の花」の恋愛相手の愛情を疑ったり試すような行動をとってしまうのは、こと男性は一般的に言えばプライド意識が強いせいもあり、極めてありがちな矛盾した行動だ。それだけであれば女性に「男って馬鹿よね」と揶揄されはしても、病気、障害、異常者とはもちろん言えない。パーソナリティ障害とは端的に言うならば極端にアンバランスで良心が作用しなくなる状態であり、「平気で嘘をつく」のも、嘘をつくときの倫理的な躊躇がないから「平気」なのだ。

「良心」というブレーキが働かず自分を追いつめる人たち

それこそ殺人に至っては、殺さなければ自らの命が危険になる戦場ですら、良心から来る躊躇が直感的に作用することが第二次大戦中にアメリカ軍が進めた研究で知られている。人間とは本来、そう簡単には同じ人間を殺せないものなのだ。だがアメリカ軍上層部にとっては、これは戦場における非効率の大きな原因とみなされ、戦後すぐに解消されるべき問題として取り組みが始まり、特に海兵隊の訓練プログラムには良心を抑え攻撃性を解放する効果がシステマティックに組み込まれて来た。沖縄で海兵隊員の起こす事件が多く、海兵隊撤退の要求が県民から出ているのにもこのような背景があるし、ヴェトナム戦争後にもイラク戦争後にも戦場PTSDが社会問題化したのも、単に戦場の残酷な体験だけが問題だったのではない。ちなみに『タクシー・ドライバー』の主人公も元海兵隊という設定で、製作年が1976年であることからヴェトナム帰りであることが暗示されている。

軍という組織自体が人工的にサイコパスを作り出しているとすら言えるし、理屈で考えれば当然危険であり倫理的にも問題が明らかなやり方なのに、軍という組織の内部ではまったく無自覚なまま進行しているのは、組織自体がサイコパシーに陥っているとすら言える。イラク戦争はそうした心理学を活用して訓練された兵士が大量に前線で戦った戦争だった。また情報戦の分野でも米軍がこの時に心理学者の全面協力で、尋問・拷問の新たな方法論を編み出し、実践していたことも、アメリカ心理学会が反省と告発の意味も込めて、調査報告を公表している。

逆に日本では多いとされる依存性は、旧日本軍の組織のあり方にもそれを増幅するシステムが見えて来る。とりわけ陸軍にはそれが顕著で、新兵いじめが横行し、訓練プロセスに至っては精神的な虐待に当たる要素があまりに多かった。この組織維持と服従を誘発する方法論は、虐待とまで言えるレベルのことはさすがに少ない(ただし皆無ではない)にせよ、日本の学校教育の現場でも今も多く見られる。日本の学校では身体的に習慣づけられた動作や細かな服装の規定、制服の使用など、子どもを依存性に誘導する要素が多い。また70年代後半以降に普及した学級会であるとか班分けの集団行動や、「みんな」の連帯を意識させて連帯責任を強調するなど、一見「民主的」を装って来た教育手法は、実のところ旧日本陸軍と極めて似通っている。

一般に、個々人の人間関係は社会に順応し他人に配慮し適応することと、社会や他人に自由を制約されることへの抵抗の微妙なバランスの上に成り立っていて、それを産まれたときからの環境のなかで繰り返し、とくに対人関係によって徐々に価値観や倫理観が学習され、形成されて行く。言い換えれば、それまで生きて来て体験して来た総体が、個々人の良心や倫理だとも言えるだろう。

ここでいう価値観や良心とは、成文化されたルールをただ意識的に、理屈通りに守ることではない。ほとんどが反射的な直感レベルでの心理的な判断のことだ。嘘をついてはいけない、殺人はいけない、というのはルールでそうなっているから従うという意識的な判断以前に、どこかで躊躇が起こるのが正常な良心の作用であり、逆に一般論では嘘はいけないと言っても「嘘も方便」ということわざもあるように、現実に則して一定の振れ幅がある。その判断には(多くが直感的で無自覚な)共感能力が関わっているはずだが、逆にパーソナリティ障害の症状として大雑把に言われるのが「良心がない」ことなのは、「ルール」ないし言われたことを意識的に守るかどうかの問題ではなく、直感的かつ半ば無自覚に作用する良心が機能しないか、その方向性が歪んでいる状態のことだ。

たとえば、過ちについて言い訳をしてしまい、そこに自ら後ろめたさも覚えてしまうのは、矛盾はしていても普通の心理だろう。そこには変に言い訳に終始してしまっては却って相手を怒らせ敵意を招くことへの躊躇も同時にある。だが時々、言い訳になっていない言い訳でひたすら自分を責めた相手を言い負かすことに終始し、会話がまったく噛み合ない状態に陥って、ますます相手を怒らせる…というよりはひたすら呆れさせるような人がいる。この場合には、なんらかのパーソナリティ障害を疑った方がいいのかも知れない。

あるいは、我々は殺人について、法的に罪であり処罰されることを理屈では口にするが、そうした処罰への恐怖が犯罪の確実な抑止力になっているわけでもないことは、死刑制度を廃止した国や社会で凶悪犯罪が増えたという統計結果がないことでも補完される。先にも触れたように、戦場においてすら人間はいわば「本能的」に殺人を躊躇するものなのだ。逆に完全犯罪や特例処置などで処罰されることがないと理屈で理解すれば平気で殺人ができるのなら、反社会性人格障害の可能性が疑われる。

ところが植松聖は、どこかで司法取引について聞きかじったのだろうが、衆院議長宛の手紙で政府に新しい名前と戸籍を自分に与える特例処置を求めている。自分の行為が正義であり国家への奉仕だとまったく疑っていないので、その見返りを国家に要求している一方で、その良心の問題は処罰されるかどうかだけも矮小化されているようにも見える。

もちろん20代の半ばも過ぎればそれまでの社会経験の総体から考えればそんなことがあり得ないのは直感的に分かるはずだが、パーソナリティ障害には自分と他者の区別がない、他者を他者として認識できず、自分の思い込みを絶対視しがちだ。

あるいは、「自分は正しい」と思いこみ続けることができなければ自我が崩壊するのかも知れない。社会のなかの人間関係において人格の安定を維持可能なバランスを保てなくなり、客観的には不合理な行動を本人が無自覚に続け、それがいわば悪循環を引き起こし、自分では絶対に正しいと思い込めば思い込むほど、危険な心理状態に自らを追い込んで行く。

『タクシー・ドライバー』の主人公や植松聖の場合、彼らの他人に向けた、あるいは自分自身に向けた言動が(本人が無自覚で「そんなつもりはない」とどれだけ強弁しようが)社会との関係を作り維持するのでなく、破綻と破壊を招く方向に常に向かっている。

途中で自分の誤りを自覚できれば救われるチャンスはいくらでもあったはずが、その誤りを自覚すること自体が彼らの自己の正しさという幻想を破壊してしまうので、それは絶対的に拒絶されてしまう。『タクシー・ドライバー』には主人公の日記が全編にナレーションとしてちりばめられていて、こうした自己内対話の堂々巡りが極めて文学的価値の高い文体で表現されているが、脚本のポール・シュレイダーによれば、これはドストエフスキーの『地下室の日記』や、サルトル、カミュらの実存主義文学に着想を得たのだそうだ。

映画『ケープ・フィアー』を模倣しているかのような植松聖容疑者

『ケープ・フィアー』は1962年のB級スリラー映画『恐怖の岬』のリメイクで、『タクシー・ドライバー』よりも遥かにエンタテインメント性の強い企画だ。しかし元の作品のいわば「とにかく悪い奴」、ただ理不尽に「悪」で「理解不能」な犯人という、善悪の判別が分かりやすかった設定が、より現実にあり得る非社会性パーソナリティ障害のきっかけや動機に近く、観客にとってもある程度理解可能な理由があり、故に善悪の判別を観客の感性と良心に委ねるものに変更されている。

『恐怖の岬』ではロバート・ミッチャムが自分の有罪を決定づけた目撃証言をした弁護士グレゴリー・ペックと家族を付けねらう、要するに偶然に強姦犯の逆恨みを買ってしまう展開で、弁護士家族にとってはほとんど天災か事故に遭ったようなもの、いわば「不運」が契機になったドラマなのが、『ケープ・フィアー』では理不尽な逆恨みとは言えない。ニック・ノルティ演ずる弁護士はかつてデ・ニーロの強姦犯の弁護に関わり、その時に被害者に不利でデ・ニーロには有利になる証拠を握りつぶしていた。つまり公正な裁判における弁護士の役割を裏切った彼の対する犯人の復讐や怒りには、それなりの正当な根拠がある。

この映画では、彼の執拗な(しかし動機の原点自体は確かに正当な)復讐を通して、弁護士の側の一見幸せで模範的に見える家族の偽善性が次第に暴かれて行くことにもなる。逆にいえば、ただ字面に書かれた「ルール」を守れと他人に強要することを「正義」とみなすなら(そしてそうとしか考えられないのが、直感的な良心が作用しなくなったサイコパスにありがちな傾向だ)、「正義」はむしろ犯人側にあり、一方で被害者となる弁護士の側には守られるべき「正義」はまったくない。サイコパスのエゴを満たす(=より大きな満足を求めて暴走する)には、最高のシチュエーションではある。

植松聖容疑者について明らかになることの多くが、この『ケープ・フィアー』のパロディのように見える。もっとも分かりやすいのが上半身一面に彫られた入れ墨だ。『タクシー・ドライバー』にも共通するが、植松聖も肉体改造の願望が強く、警察が捜索に入った自宅で筋力トレーニングの道具が見つかっている。また植松聖は他にも髪をまず金髪に染め、やがてはまぶたを二重にするなどの美容整形まで繰り返すようになり、友人には自分の体に金をかけてロレックスのようにしているのだと言っている。

自分を肉体的・精神的に痛めつけることで自分の強さを威圧的に強調する、歪んだ自虐性の傾向が見られるのも、『ケープ・フィアー』の主人公が極端に繰り返すことだ。また植松の場合は金銭的・経済的にも同じようなパターンが見られる。津久井やまゆり園から解雇され、措置入院を退院後、生活保護を申請したら即座に通るような経済状態になる直前に、相当に高価な整形手術を受けているのだ。これも無自覚だったにせよ自分を追いつめる矛盾した行動であり、経済的な困窮がますます自分の動機を貫く意志を強化するように、無意識に自分で仕向けた行動とも解釈できるだろう。

男性が力強い肉体に自分を鍛えて、強さや性的な魅力のプライドを満たし、またその肉体を威圧的かつ性的なものとして周囲に見せつけようとする、そのこと自体が「サイコパス」だというのではまったくない。美容整形を「病気」というわけでもない。だが植松聖に関しては他にも以前からプライドの高さと、プライド意識自体の歪みを示唆する出来事があったことが、いくつか報道でも出て来ている。

プライドと上下関係でしか人間関係を認識できない病

植松聖は父親が教師だったという理由で、大学で教員養成課程の教育実習をとっているが、この時は子どもに慕われるいい先生と思われていたそうだ。もちろん、これもそれ自体はなんら問題のない事実だが、彼の場合は中学くらいまでは明るい人気者だったのが、とくに大学に入ってから目に見えて周囲から孤立していたという友人たち(小中学校の同級生がほとんど)の証言とは対照的だ。

大学生どうしの人間関係になると、中学が、高校くらいまでの子どもの友情や、子どもが人気ものになるのとは本質的に異なった部分が出て来る。なのに子ども時代の感覚が抜けないまま孤立を深めて来たのが植松聖だったとしたら、教育実習では大学生なのだから子どもから見れば大人、つまり優位の立場になり、彼から見れば子ども達は自動的に自分より弱く下位の、従ってやさしく保護すればいい、「かわいい」と思える関係性になるだろう。

だが教育実習で自信を取り戻せたはずが教員免許は取れずに終わり、それと前後して肉体改造が始まっている。入れ墨の彫り師になりたがっている記述もこの時期のブログにあり、友人の証言では現に彫り師に入門したらしい。入れ墨には様々な意味が考えられるが、日本の文脈では、痛みに耐えて美しい彫りを肌に刻むことに、痛みに耐える力としての男性的な強さを象徴させる、マゾヒスティックな文化があることは指摘しておく。

教員になれない(教員採用試験に落第した=プライドを深く傷つけられた)ままで大学を卒業した後、植松聖は清涼飲料水の配送の仕事で雇われたものの、待遇の悪さに不満を募らせたということで退職し、自宅近くの津久井やまゆり園に就職している。この時には友人に、重度障害者の入居者を「かわいい」と言っている。「なにも出来ないのが、こちらが教えてやると言った通りに出来るようになる」からだそうだ。

障害施設の入居者を「かわいい」と言っただけなら危険視すべきことでもないだろうが、この理由の説明だと自分の言いなりになる相手だから「かわいい」という意味にもとれる。

その前に務めていた配送の仕事はいわゆるブラック労働だったのかも知れないが、次の職場となるやまゆり園についての感想と比較するなら、不満の理由のひとつが仕事の中身自体が会社から命令されたままに動くだけだったことにあったとも考えられる。だいたい、やまゆり園の仕事の給料も決して良くはないし、夜勤も多く、しかも人手不足気味だった。ただでさえ成人の介護の仕事が精神的だけでなく身体的にも重労働であり、清涼飲料水会社の配送と待遇にそこまで差があったとは考えにくい。

やまゆり園側の事件後の記者会見によれば、植松聖はここで働き始めてまもなく、マジックで入居者の手にいたずら書きをして問題になっている。だが一方で、先輩職員が入居者を乱暴に扱ったことにひどく怒っていた、という証言も友人から出ている。この時期についても今後の取り調べや精神鑑定で実際はどうだったのか、より詳細なヒアリングで細かな事実関係が解明されるはずだが、とりあえず植松本人にとってどんな意味を持っていたのか、いくつかのパターンが考えられる。

まず単純に考えれば後者の証言は彼が友人相手に見栄を張った嘘を言っただけなのかも知れないが、逆に雇い主や同僚が「いたずら書き」と思ったことが、植松とその入居者のあいだでは別の意味を持っていた可能性も無視できず、そうだとしたら彼が重度障害者の入居者を「かわいい」と言っていたこととも矛盾しない。

つまりこのとき、すでに植松は上半身に入れ墨があった。その入居者にたとえば自閉症があった場合、その入れ墨に強く興味を持ち、だからマジックで入れ墨を描いてあげたということも、比較的即座に思いつく可能性だ。この時点ではまだ彼は「子どもっぽい」だけだったのかも知れず、だとしたら社会・環境とのボタンの掛け違いには、まだ修整の可能性も残されていた。

だが一方でこの「かわいい」、なぜなら「教えてやると言った通りに出来るようになるから」という感想は、教育実習やその後に教員免許の取得に失敗したことと照らし合わせると、そこに共通する植松の歪んだプライドへの固執は否定できない。彼は教育実習のあいだもブログに楽しいという主旨のことを度々書いているが、その一連の記述の終わり方がなんとも奇妙なのだ。

教員免許の試験を受けようと思ったらとっくに願書の提出締め切りが過ぎていた、と記して「タハー」とおどけたように締めくくっている。

教員免許を取れなかった奇妙ないいわけ

本当に願書を提出していなかったのかどうか、事実はまだ分からないが、受験して落第していたのだとしたら、出願の期日を知らなかっというブログは落第の事実を誤摩化し対外的なプライドを維持するための嘘になる。だとすれば本人はこの奇妙ないいわけで名誉を守れたつもりでいたのだろうが、客観的にはかえって呆れられる内容だ。

逆に本当に出願を忘れていたか、期日を知らなかったのだとしたら、教師を目指していたというのは上辺だけの取り繕いでしかなかったことになる。教育実習もただ子どもに慕われる(=大人相手の煩わしさがない上に自分が自動的に上位になる)のが楽しかったかだけなのか、あるいは楽しいと書いたこと自体が本当なのかどうかも分からない、ただの強がりだったのかも知れない。

このいずれの可能性をとっても、彼は自分ではプライドを守ったつもりが「ふざけてる」と思われて反発を買うことにも気づいていないことになり、だとしたら単に子どもっぽかっただけなのかもしれない一方で、いわゆる「平気でうそをつき続けてしまう人」の心理的メカニズムに陥っっている典型ともみなせる。

実は教員採用試験に落第したのか、試験自体を受けておらず教員になる気が実はなかったのか、出願期間を知らなかったのか、いずれにせよブログの記述はわざとおもしろおかしく、ユーモラスというか「ウケ狙い」で書かれている。自分が間違ってはいないか、馬鹿げたミスだが傷ついてはいない、ないし「勝って」いると(たぶんに自己欺瞞で)思い込み、それを周囲に向けてアピールしているつもりの書き方にも、なっているのだ。

無論こんな文章は読んだ人ならかえって呆れるだけであっても、本人は自分には余裕があるのだと思い込んだまま、自己閉塞してしまっている感が極めて強い。このタイプの人たちは嘘がバレてしまっても、「自分はそんなつもりはない」と言い張って押し通してしまうから、嘘をつくことに倫理的な躊躇が起きにくい。こうした基本的な倫理観が抜け落ちた、パーソナリティ障害にありがちな行動パターンは、他人、他者の存在が認識構造から抜け落ちているからだとも解釈できる。

言い換えれば、他人は自分の欲望や願望の延長線上にしか認識されず、共感能力が自己投影にスリ替わっている。極端な場合、自分が相手に対して抱いている悪感情が、その本人の認識ではその相手が自分に対して悪感情を抱いているのだと認識されてしまう。

「あんないい人がなぜ」と周囲が思うメカニズム

『タクシー・ドライバー』では、全編に響く日記のナレーションで示される、不気味なまでの孤独感と憎悪と攻撃性を募らせて行く歪んだ論理の展開とは裏腹に、画面に映って他の人間とやりとりをしている主人公が場合によってはにこやかで、愛想がよかったり、親切にさえ見えるときもある。『ケープ・フィアー』のデ・ニーロは一見明朗で、性的にも極めて魅力的な人間にさえ、ニック・ノルティ演ずる弁護士以外からは見られているし、またデ・ニーロの犯人自信が意図的にそういう自己像を演ずることで、ターゲットの弁護士を孤立させて心理的に追い込んで行く。

「周囲」といってもそこまで親しく知っているわけではない大半の人が「あんなにいい人がこんな事件を起こすとは信じられない」と言い出すような、植松聖容疑者の場合にも起こっていたことは、パーソナリティ障害はある人間の場合であれば、そんなに不自然でも不可解でもないのだ。

人間はしょせん外面しか他人を見ることができず、その内面は見た目から(多くの場合直感的に)類推されるものでしかない。そんな現実の社会生活のなかでは、健常者でもときに意図的に偽装・演技することもあるが、パーソナリティ障害ではその区分け自体が自覚されなくなる場合さえ少なくないし、自分でも信じ込んでいるほど他人を信じ込ませることも可能になる。むしろ「平気でうそをつける人たち」、非社会性パーソナリティ障害だからこそよくあることだ(なのに、植松聖の措置入院では、人が反省を口にしただけで病院側が退院を判断し、両親と同居するという嘘にも呆気なく騙されている)。

同じようなことは、実話の映画化である『ニュースの天才』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でもはっきり見られるし、彼らのかりそめの成功の源泉でもある。サイコパスの精神状態かその前段階にある人間は、外面的にはしばしば、むしろ明るく快活に見えて、カリスマ性もあるなど、周りから好感を持たれることも多い。

文学化されたいい例が、シェイクスピアの『リチャード三世』だ。リチャードが王位を目指す野望の足がかりにするために、自分を夫の仇として憎む女性たちすら誘惑し籠絡していく過程の描写は圧巻で、演ずる俳優にとってはその演技力の最高の見せ場でもある。ちなみに史実のイングランド国王リチャード三世は生まれつき背骨が曲がった障害があり、戯曲もその設定を踏襲して醜悪な風貌とされているのに、それでも女達がリチャードになによりも性的に魅了され、信じ込んでしまう展開の驚異的な説得力は、シェイクスピアの天才的な筆力の面目躍如たるところだ。なお現代ではこうしたリチャードの性的なカリスマ性を強調するために、背中の曲がった障害の設定を外して、健常者として演じられる場合が多い。

非社会性パーソナリティ障害を疑わせる事実があまりに多いことについては、今後は植松聖容疑者が実家に暮らしていながら両親との同居ではない、つまり両親がその家を出てしまっていて彼だけが住み続けて来た背景なども、より詳細な検討が必要になる。両親のプライバシー問題もあるのですべてが報道に出ては来ないだろうが、2月に措置入院を決めた時点でも非社会性パーソナリティ障害という診断が出ているのだから、入院の治療目的の策定の時点で両親の聞き取り調査が行われていなければおかしい。だが退院時には本人の両親と暮らすという虚偽の自己申告を見抜けていなかったなど、どうにも一連の判断には疑問点があまりにも多い。

医療の良心にのみ依存して形骸化した日本の措置入院制度の問題点

措置入院制度がまったく役に立たなかった結果になり、さまざまな精神医療の専門家がメディアに意見を求められているが、もっとも肝心な一点が避けられている印象がある。

措置入院を受け入れること自体、病院にとっては大きな負担なのだ。

措置入院は行政判断なので、健康保険の対象であっても自己負担金は本人ではなく自治体が支払う。個々の自治体側の判断に左右されることが、必ずしも治療に本当に必要なだけの金額が出費されるわけではないだろうし、病院にとっては赤字覚悟になる場合も少なくない。

それに措置入院は法的には基本的人権のやむを得ぬ(憲法上は「公共の福祉」に基づく)制約なので、行政としても医者としても長期間はなるべくやりたくはない。植松聖のような非社会性パーソナリティ障害の場合、退院後の通院でのカウンセリングなどで長期的にケアしていくことになるが、その段階では自己負担金は自弁になるし、本人の自由意志で断ることも止めることも、いや植松聖の場合がそうだったように、単に嘘をついて姿を消すこともできる(むしろ「平気でうそをつく人たち」は当然そうするだろう)。

だが病院側にとってなによりも大きな現実的なリスクは、植松聖の場合なら診断が非社会性パーソナリティ障害で他傷の危険がある、というところだ。それも障害者は税金を食いつぶすだけでなにも国に貢献しないから殺すべきだと主張する人物であれば、精神病院に入院させているだけでも他の患者を殺傷しかねない。一方で、公費負担の措置入院ということは、彼は自分が「殺すべき」と蔑視しているその対象とまったく同じ立場に置かれたことになる。本人がその矛盾にどう対処するかには様々なパターンが考えられるが、いずれにせよその矛盾した立場が却って暴力性を高めてしまうリスクが無視できない。

相模原市が措置入院に使った病院にどんな設備があるのかは分からないが、そうした攻撃性の発露を防止できるかどうか、これは相当に難しい問題だ。

しかもやむを得ないとはいえ、身体拘束は人権侵害の可能性だけでなく、医学的な治療効果の観点からも、必ずしも肯定はできない。憎悪の感情を悪化させ、非社会性パーソナリティ障害をより進行させるリスクも無視できないのだ。しかもここでひとつ対応を間違えたり、悪意ある噂を立てられるだけで、病院は壮絶なバッシングに晒されるだろうし、非社会性パーソナリティがある人間にとってはしばしば、そういう悪意の中傷を振りまくのも得意なことのひとつになるのは、もはや説明の必要もないだろう。

精神医療に対する極度な偏見のなかでは、措置入院は機能できない

日本の措置入院制度がたぶんに形骸化していて、現実的には多々矛盾や欠陥が多く、医療機関に理不尽な負担を押し付けて来たことも明らかになったのも、この事件ではある。だがここで拙速な議論で結論を急ぐのは禁物だ。なによりもその背景には、精神疾患について日本社会全般が極度に無関心で、強い差別偏見とそこから来る忌避の感情に支配されていることがあることを無視してはならない。

今回の事件と直接の関係はないが、薬物依存症事犯で日本では再犯率が高い理由のひとつは、治療プログラムが必要な依存症患者を犯罪者として処罰するだけで反省を促す無茶な更正の理念にある。犯罪者の矯正に精神医療が果たす役割について、日本の制度はあまりに未熟であり、政治も社会も世論もその議論をタブー視して避けて来ている。かといってこれは議論するにも慎重さが要されるのも確かで、稚拙な善悪論に終始しては、今度は精神疾患=犯罪者という誤った偏見を流布しかねないし、今の日本社会ではとりわけ、そのリスクは無視できない。

またこうした議論で外すことが出来ない、人権の認識とその範疇に関する社会の共通理解も不十分なのが日本社会の現状だ。「人権」という言葉を持ち出すことが権威主義的な思考停止を強いるだけになりがちなのは大きな問題だし、こうした個々人の権利と社会的責任の関係性と、その責任を権威主義的な社会貢献の義務の強要と混同しがちな日本社会全般の偽善的な傾向こそが、植松聖容疑者の名目上の犯行動機である危険な思想にも根底ではつながっている。

従来のサイコパス殺人の典型からはみ出した犯行動機

この事件は発生当初から出ている情報だけでも非社会性パーソナリティ障害に起因する犯罪だと強く疑われ、現にその診断も出ていたことまで分かっているものの、一点だけその典型的なパターンから外れ、どうにも疑問が残る部分がある。

非社会性パーソナリティ障害に起因して他者を攻撃したり殺害する犯罪の直接動機には、大きくわけて性的な衝動に起因するパターンと、社会への復讐のパターンがある(しばしばその両方が、本人には無自覚なまま複雑に入り組んでもいる)。植松聖容疑者の犯行はどこにも性欲や男性性の自己確認に関わる部分が見当たらず(そのぶん妙に子どもっぽい)、本人の言動などからも「社会への復讐」パターンに分類されるが、性的な欲求が支配欲やサディズムに転じたサイコパスの場合なら自分より「弱い」対象に暴力や支配欲が向かうことも多いのに対し、「社会への復讐」が主たる動機であれば、その攻撃性が直接的に実際に身体の自由が利かず、社会的立場が「弱い」とみなされ、しばしば現実に差別にも晒される社会的「弱者」で、一方では植松自身が「かわいい」と言っていた障害者に向かうとは、およそ考えにくいのだ。

犯行後に自首したときの植松聖は、「ヤツをやった」という主旨の言葉を繰り返したと報じられていた。我々の(「常識的」な)感覚では、この「ヤツ」が身体が自由に動かせず言葉も発せられない、恒常的にケアが必要な重複障害者に向けられたとはなかなかピンと来ない。むしろ例えば『カッコーの巣の上で』(1975)の精神病院内で暴君のように君臨する看護婦長みたいな存在しか、この言葉は意味しないはずだ。

社会のなかでなんらかの形で権威や権力を持っている、犯人からみれば不当な権力や暴力の抑圧を行使している相手でなければ、その復讐行為の自己正当化は難しいはずだ。なのに衆院議長宛の手紙でも、犯行前から友人などに漏らしていた言葉でも、事件後の証言やツイッターへの書き込みや、そこにアップした顔写真や、送検時にテレビに写ってしまった笑顔を見ても、彼は「弱いものいじめ」というもっともはしたないものにしか見えないはずの自分の行為が正義だったと思い込み、自己満足に浸りきり、多くの共感を呼んだつもりの英雄気取りでさえあるように見える。

自己閉塞した自己正当化の論理がなければ、サイコパスでも殺人は難しい

『ケープ・フィアー』なら犯人は弁護士という社会的地位のある人物の偽証と職業倫理違反を自己正当化の理由にしている。

『罪と罰』のラスコーリニコフが殺すのは、確かに「社会の役に立たない」と彼がみなしたユダヤ人の老婆だが、その老婆は高利貸しで自分も含む多くの人を苦しめ支配している(つまりラスコーリニコフのなかでは、いわば「反資本主義」の戦いになる)。

『タクシー・ドライバー』で主人公はまず大統領候補の暗殺に失敗し、大量殺戮を犯すのは売春宿で、少女に売春をさせているギャング達が相手だ。ちなみにこれは、元の脚本では黒人だった。ユダヤ人や黒人自体が差別対象であり、どちらの主人公も根本的な人種差別意識が強いだけに、自分より下等なはずの相手が自分たち白人を虐げているという考えがその怒りを倍増させていることにはなるが、その行為は彼らのなかでは「弱い(かわいい・かわいそうな)」者を救うという、自己正当化の論理が成り立っている。

もちろん、客観的に見れば真の動機は暴力の行使で他者を支配下ないし自分の下位に置く、その究極のあり方としての命を奪う行為が、自己満足の恍惚をもたらすところにあるのだが、その病理を自覚はできないからこそ、極端な場合は「神」や「正義」などの超越的価値まで持ち出して自己正当化を図ることが、非社会性パーソナリティ障害による暴力犯罪にはありがちだ。

現代のほとんどのヘイト・クライムは、こうした歪んだ差別意識が非社会性パーソナリティ障害の症状として増幅されて起きたと解釈できる。アメリカのバイブル・ベルトで同性愛者が狙われるのは「我々の神を冒涜している」、妊娠中絶手術を行う医師が狙われるのは「胎児(=かわいそうな弱者)を殺している」からだ。だが障害者差別が直接動機の植松聖の場合、それも知的障害や自閉症を伴う重複障害が攻撃対象では、そうしたいわば究極の社会的弱者が自分達「日本人」つまり「健常者」「マジョリティ」を不当に抑圧支配し虐げているなどと、どう考えたら思いつけるのだろう?

サイコパスによる劇場型殺人の自己顕示欲の発露としても、日常動作に介助が必要な人も多く抵抗ができない障害者を襲ったところで、自分の強さの証明にもならないどころか「弱いものいじめ」であまりに「かっこ悪い」のに、なぜ植松容疑者はなぜかヒーロー気取りでいられるのだろう?

衆院議長宛の手紙に秘められた、植松聖の心理を読み解く鍵

だがこの不可解さは、植松聖が衆院議長公邸に持って行った手紙の全文を読み、その文面のテレビなどではまず取り上げられていない部分に注目すれば説明がつく。またその心理は、いったんは受け取りを断られた手紙を翌日に、今度は土下座までして受け取らせた…のではなく実は「受け取ったもらった」ことにもつながっている。

非社会性パーソナリティ障害でよくある行動パターンに当てはめれば、この土下座は自分の任務を果たすためにあえて屈辱に耐える屈折したマゾヒズムで、その屈辱感で自分の憎しみの自己正当化をますます増幅させる行為と解釈できる。ところが文面と照らし合わせて見ると、植松聖の場合は意味が違ったとしか考えようがないのだ。手紙は彼がマゾヒスティックに自分に我慢を強要して「受け取らせた」のではなく、文字通り「受け取ってもらった」のだ。

そう考えるべきなのは、この手紙が決して大島衆院議長ではなく「安倍晋三様」に宛てたものだからだ。そういえば、彼は津久井やまゆり園で大量殺人を「日本国の指示があればいつでも実行できる」と言って退職・措置入院に追い込まれたのだし、「日本国の指示」ならば手紙も安倍首相宛でないとおかしい。

そして実際の文面では、直接の宛名が大島議長なのは、単に議長がこれを首相に渡すことを期待してのことになっている。

その「安倍晋三様」という名前を、植松容疑者は犯行の大目的を説明して最後に署名がある前半と、「作戦内容」と題されて住所と署名で終わる後半の二つの部分に大きく分かれている手紙の、それぞれの最後の方に書いている。一度目は「是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います」、二度目は「安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております」と、まるで念押しでもしているかのようだ。

実際の手紙をみると、彼の自己正当化された動機は、報道で引用されがちな障害者への単なる憎悪なり(「障害者は不幸を作ることしかできません」)、障害者の支援に税金が使われていたりすることだけでは説明できない。彼は自分の行為を「革命」と呼び、「日本国のため」「世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐ」、世界平和のためと列挙した上で、自分の行為を「日本国が大きな第一歩」を踏み出すことだと自己顕示欲たっぷりに主張し、この計画を聞きさえすれば安倍晋三首相が賛成して自分に実行を指示するであろうと信じ切ってまったく疑っていないように見える。

植松聖の手紙をぎこちなく無視し続ける安倍政権の誤り

この手紙が衆院議長公邸に届けられた時点では、公表も事件化もされなかったどころか、警視庁と神奈川県警を経るあいだに内容も曖昧になり、実際の中身が相模原市にも津久井やまゆり園にも、措置入院を担当した医師や病院にも伝えられなかったのは、この安倍晋三首相への言及が理由だったと考えて、まず間違いはないだろう。

手紙には住所すら明記されていたのに、その近所にあった津久井やまゆり園に警戒を呼びかけていないのは呆れる他ないが、そこまで首相官邸の判断だったなんてことはさすがにないだろうとしても、現場レベルで首相の立場を忖度して事なかれ主義に徹したのだとしたら、大きな誤りだったのは先に述べた理由だけではない。手紙について政府がなんの反応も示さなかっただけでも、それを「受け取ってもらえた」植松にとっては、自分の計画を安倍首相が無視していると理解するよりは、内容が「誤解を招く」ものだけに、おおっぴらには言えないだけだとみなすだろう。現に彼はこの手紙のことで「逮捕されるかも知れない」と友人に吹聴していた時期もあったようだが、つまりは自分が逮捕もされない以上は、首相は認めてくれたのだ、という思い込みに陥った可能性が高い。

まして実際に事件が起こってしまった今になっても、全文が公表されているのにも関わらず報道各社も官邸に忖度してこの部分への言及を避け、また安倍首相の側でもなにも言っていないのは、率直に言ってなにを考えているのか理解に苦しむ。

しかも犯行直後の植松聖のツイートには「Beautiful Japan」という文字列があった。もちろん安倍首相のキャッチフレーズ「美しい国」を指すものだと受け取られる文言だ。

犯行直後に犯人の発した、安倍首相の「美しい国」を意味する言葉

首相は即座に、自分はこのような考えは共有していない、「美しい国」がそんなことは意味しないんだと、明言しなければならなかったはずだ。その明確な否定・否認がない限り、植松容疑者は医学的な譫妄症状としての妄想ではなく、重度なパーソナリティ障害にありがちな極度な自己愛性の思い込みという意味での妄想で、自分は安倍総理の言外の意を受けてその意思を実行するのだと信じ込んで犯行に至り、犯行後の今もそう信じ込み続けるだろう。現に警察や地検の取り調べでも、動機としてこの手紙と同じ内容を繰り返すだけだという。

しかもこの思い込みを共有しているのは、恐らくは植松聖容疑者だけではない。ネット上には「みんな植松容疑者が異常だと言い張るけど行動がよくなかっただけで言ってることは正論」「植松の言ってることはこれからの日本を考えるとあながち間違ってはいない」「連中に使われる予定だった税金を節約して、国の役にたったよ」といった匿名のユーザーの発言が既に飛び交っていて、しかもそれらのアカウントは安倍首相支持を表明していたり、「自民党ネットサポーターズクラブ」の会員を名乗っていたりするのだ。

安倍首相本人としても、自分がこのような残虐な差別思想の持ち主だと思われるだけでも、首相自身の名誉にも、政府の信頼にも関わるはずだ。しかし官邸も自民党も、そうした人間が自分たちの支持者を標榜していることを無視し、放置している。これでは「美しい国」とは障害者や生活保護受給者などの「弱者」を排除するか服従させることを意味するのだ、という思いこみは蔓延し続けるだろう。

首相自身がはっきり否定しない限り、彼らは自分たちが支持する安倍首相も自分たちと実は同じ考えで、だから自分たちは正しいのだと信じて疑わないだろうし、批判されたところで「サヨクの偽善」という自己逃避のいいわけに引きこもるだけで、聞く耳も一切持たないだろう。

それどころか、首相が明確に賛同を表明しない(できない)のは「サヨクの圧力」のせいないのだ、とすら思い込みかねない。

植松聖的な安倍支持の、珍妙な陰謀論的世界観

非社会性パーソナリティ障害と、客観的には妄想としか思えない陰謀論の親和性は高い。極端な話、自分が仮に「人格障害」という診断を受けて精神病院に入院するように言われても、それは医学会を支配するユダヤ人の陰謀であるとか、措置入院を命じた自治体にはフリーメイスンが入り込んでいるとか、イルミナティの陰謀を暴こうとしているから自分を閉じ込めようとしているのだ等と考えることで、彼らの中では完全な自己正当化が成り立つからだ。

こんな絵空事の陰謀論は、ごく普通に生活し社会のなかで働いて、社会性の認識ができていれば、そんなことはまずあり得ないと気づくはずだ。しかし彼らにはそんなことを言っても意味がない。反社会性人格障害の患者はしばしば知能が高い(それゆえのプライドの高さが人格障害の原因として考えられる)が、社会性や他者性の認識はまったく欠如していることも、この病の特徴のひとつだからだ。

植松聖や彼に賛同するネット上の人々(そのすべてが反社会性人格障害だという意味では必ずしもない)が非常に変わっているのは、いわゆるサイコパスの場合は自己正当化になにか超越的な価値や正義を求める、たとえば自分は神の意思で「革命」を行うのだとか、絶対的な真理に基づく運命や使命などを口にする(ちなみにアドルフ・ヒトラーの演説で繰り返された常套句である)ところが、彼らの場合、その自己の絶対的な自己正当化のために依拠する対象が…なんと、たかが「安倍晋三様」なのだ。

いや別に安倍氏を馬鹿にしているわけではない。現実社会のたかが世俗権力者でしかない総理大臣が、絶対的な真理や運命や使命を左右する超越者、たとえば「神」や「真理」の代替物になるわけもないはずだ。むしろ逆に、その安倍氏は文字通り政府の首班であるからには、彼らが不満を持っているはずの社会において、むしろその最大の権力と権威の責任者のはずだ。

またその安倍氏は政治家としてもアドルフ・ヒトラーでもスターリンでも毛沢東でもないし、神格化されたカリスマの国家的英雄でもない。逆にいえば明治時代に東郷平八郎や乃木希典をそうした崇拝/依存対象にするのならまだ分かるし、一昔前の日本なら児玉誉士夫か田中角栄のようなミステリアスな黒幕と認識される存在ならともかく、「安倍晋三様」とは、いったいどういうことなのだろう?

しかしこうした倒錯に共鳴する奇妙な認識が、その安倍首相自身から発せられて来たのも確かだ。二度目の総理就任からしばらくのあいだ、安倍政権のキャッチフレーズは「戦後レジューム(ママ)の打破」だった。

いやちょっと待って欲しい。安倍氏自身が祖父は岸信介元首相、父の安倍晋太郎氏は中曽根政権の頃から「政界のニューリーダー」として注目され、外務大臣などを歴任し、政治権力の中枢にいた著名政治家だ。安倍氏のような自民党の二世・三世政治家こそ「戦後レジーム」つまり日本の戦後の支配体制の中枢を、それも世襲で引き継いで来ている。あるいは、ほぼ万年与党の自由民主党こそ戦後レジームそのものだろうし、戦後レジームといえば霞ヶ関の官僚機構というのならまだ分かるが、安倍政権は民主党の鳩山政権のように政治主導を唱えて霞ヶ関の権限権力と対峙しているわけでもない。むしろ政策面でも法案作成でもあまりに多くを霞ヶ関に依存している政権が、いったいどんなレジームを打破するのだろうか?

首相つまり最高権力者が虐げられた弱者?

だが解釈改憲を強行し、今は憲法改正を「悲願」と言っている安倍氏の永年の持論が「押し付け憲法論」であるのをみると、どうも彼のなかでは日本国憲法が「戦後レジーム」であるらしい。

つまり戦後にGHQに押し付けられた憲法が日本の「支配体制」だと言いたいらしいのだが、憲法によって自分たちの政府の権力行使が制約されることを自分たちを抑圧する「体制」だと主張し、自分たちが好き勝手にできないのは自分たちが何かの陰謀論組織に支配されているでも言うのだろうか? どうも自分達のわがままな好き勝手が社会に通用しないことが、彼らの被害者意識を増幅させているようにも思える、このロジックは植松聖がなぜか障害者たち自身を憎悪の対象としたことにも通じている。

そのんな安倍氏の熱烈な支持者であるつもりの、自民党ネットサポーターズクラブの会員を自称するネットユーザーの多くは、在日韓国人が日本を陰で支配し日本人を抑圧しているのだと言い張る。欧米のユダヤ陰謀論であれば、確かに金融業界やメディアにはユダヤ人が多く、大銀行家一族やメディア王、ウラン採掘企業の創業者のユダヤ系の一族などもいる以上、まだある程度の説得力はあるだろう。現代の日本にも孫正義氏やロッテ・グループなどの大資本家・大企業経営一族の在日韓国人もいるとはいえ、極めて例外的存在で、ましてその孫氏やロッテが日本経済を支配しているわけもない。しかも彼らはそうした一流大企業には目もくれず、やり玉にあげるのはひたすらパチンコ業界なのだ(ちなみにその経営者に、実際に在日コリアンが多いわけでもない)。

パチンコ業界が日本を支配するほどの力を持っているのだろうか? たしかに警察との癒着は指摘されているが、その癒着とはむしろパチンコ業界が警察組織に食い物にされている程度のことだ。また彼らは民主党(民進党)や社民党が通名使用で出自を隠した在日韓国人の政党で、中国の指示で動く陰謀組織なのだというが、これらの弱小野党に日本の政界を裏で牛耳る力なぞあろうはずもないし、人口の0.5%にも満たない在日コリアンがそんな勢力を形成できるわけもないだろう。ここで御都合主義的に飛び出すのが、民進党の岡田代表がイオンの創業者一族の出だということだったりするのだが、一方で鳩山由紀夫元首相や故鳩山邦夫議員が政界の名門鳩山家の出であるだけでなく、母がタイヤで財をなしたブリジストンの石橋家から鳩山家に嫁いでいることは、なぜか問題にされない。

たとえば「在日特権を許さない市民の会(在特会)」に参加したり支持したりする人たちがすぐ持ち出すのが、戦後まもなくの混乱期に話が飛躍して闇市の「朝鮮進駐軍(闇市の支配権を日本人ヤクザと争った韓国朝鮮系のヤクザ)」をめぐる都市伝説にやたら詳しかったり、そこからいきなり2000年代のテレビの「韓流ブーム」に話が飛んで在日がテレビ局を支配していると言い張ってみたり、在日コリアンが生活保護制度の対象になっているのが在日の日本支配の証明だと言い張る。こんな荒唐無稽なつまみ食いの羅列を本気で信じられるわけも実はないのだろう。嘘だと分かっているのに言い張るのは、パーソナリティ障害が当然疑われるわけだが、問いつめてみると結局は、自分たちが在日コリアンに対する差別発言を責められることが自分たちの自由を奪っていると感じていて、「差別だ」「ヘイトスピーチだ」と言われ差別主義者だと「レッテル貼り」されると反論できなくなってしまうことが、彼らにとっての安倍首相のいう「戦後レジーム」なのだ、と言いたいらしいことが分かる。

「障害者=最強の強者」?被害者意識が蔓延する日本がサイコパスを産む

植松聖のツイッター・アカウントも、そういう主張を展開するいわゆる「ネット右翼」ないし「ネトウヨ」や、その「ネトウヨ」層に人気のあるアカウントを片っ端からフォローしていた。だからと言って彼が直接に、例えば在日コリアンに対するヘイトスピーチ運動のデモなどに参加していたわけではなさそうなのだが、しかしその障害者に対する理不尽な憎悪には、同じ歪んだロジックが見られる。

再びネット上に飛び出た植松擁護の発言を引用するなら「精神障害者はどんなに暴力や暴言はいても罪に問われない無敵の強者」なのだそうだ。

逆に言えばそうして障害者を責めたりすると「差別」と言われ発言権を失い人格すら否定されるという、その実自己欺瞞の自己逃避でしかない思い込みにこそ、植松聖やいわゆる「ネトウヨ」層は支配されている。いや本当に支配されてそう思い込んでいるのか、自分たちは被害者であり不当に支配抑圧されているのだと言い張ったら「無敵の強者」になれると思っているから利用しているだけなのか、そんな欲望を正当化するいい加減な御都合主義に過ぎないのかすら、本人たちにも区別がついていないのかも知れない(というか、パーソナリティ障害の患者であれば区別がつかない場合も多いはずだ)。

こうした思い込みの構造は、根が深いというにはあまりに浅薄な自己欺瞞の自己逃避でしかないのだが、にも関わらず解消がひどく困難な点では(非社会性パーソナリティ障害にとって陰謀論が被害妄想と結びついて無敵の論理になるのは先述の通りなので)、確かに根深い問題でもある。

植松聖の衆院議長宛、というより「安倍晋三様」宛の手紙にも、最初の方に「常軌を逸する発言であることは重々理解しております」とある。そう断りながら彼はその「常軌を逸した」自分の主張に説得力を持たせようとする努力の跡が皆無なまま、滔々と自分の思想らしきものを展開している。他者の認識が欠如した意識の構造の典型的な言動とも指摘できるだろう。

サイコパスを生み出す環境は社会そのものの差別性にある

言い換えれば、彼らにとってこうした発言が憚られるのは世間体というか、「差別だ」と言われるのが怖いから言えないだけで、多くの人が本音では自分達に全面的に賛同するはずだと信じて疑っていないし、そんな自己内堂々巡りの自己完結は、どんなに合理的に誤りを指摘しようとも彼らは自分たちの世界に引きこもり続けて「自分たちだけが知っている/言える真実」の優越感に没入するだけだろう。しかもそうなってしまうことについては、必ずしも単に植松聖がこの手紙の直後に非社会性パーソナリティ障害と診断されるような精神状態だったせいだけだとも、断言はできない。

なにしろ、同じような差別的ロジックの「本音」が多くの政治家の「失言」として飛び出すケースがあまりに多く、実質社会的に認知されてしまっているのが現状なのだ。障害者や、生活保護の受給者、要介護の高齢者は社会や国家に貢献しない厄介者だという決めつけが共有され蔓延しながら、その「本音」を言葉にすると批判が集中し、「誤解を招いたことを謝罪する」(実際には誤解などなにもない)と言い張ればそれだけで収束する。一方で文脈上明らかに差別と無関係な言葉でも、その語彙がたとえば放送局の内規に反する(いわゆる「放送禁止用語」)だけで排除される。そんな中で彼らは「差別ではない、区別だ」と言い張るへ理屈を捏造しようと熱中する一方で、自分たちの「思想」を自由に言えないことを空想上の権力の抑圧だと思い込み、差別される側への被害妄想を逞しくしていく。

こうした過剰なまでの「差別していると言われないで済むルール」の模索の一方で、多くのメディアでは「障害者」はこれまた多分に皮相な扱いでセンチメンタルな「感動」の文脈でしか登場することがない。これでは結局コインの裏表、同じ潜在的差別意識の障害者への不合理な憎悪が、一方では腫れ物扱いおためごかしの忌避、一方では過剰な暴力性で表出しているに過ぎない。

その意味で植松聖の犯罪は、24時間テレビのようなたぶんに欺瞞的をはらんだ「弱者の美化」の皮相的な善意の文化からこそ、必然的に産まれて来たものでもある。

名前も顔も出ない扱いでは、被害者の人格は認識されない

象徴的なのが、この死者の数では戦後最悪の大量殺人事件で、被害者の名前が伏せられ続けていることだ。

神奈川県警は被害者が障害者であることへの配慮と、遺族からの要望を理由に公表していない。もちろん遺族のなかには家族に障害者がいたこと、その家族を施設に預けていたことを、差別偏見に晒されるのを恐れて隠して来た人も決して少なくないだろうし、施設に預けていたこと自体を責め立てる偽善者も(憲法草案に「家族の助け合い」の義務を書き込んでしまう自民党の一部であるとか)出て来かねないなかで、こうした配慮はただでさえ悲しみにくれ呆然自失としている人も多い遺族の心情を考えればやむを得ないだろう。実際に、慰霊の催しに被害者の1人の姉がメッセージを寄せ、「心ないことを言ってくる人もいるでしょう」と影響を心配し「事件の加害者と同じ思想を持つ人間がどれだけ潜んでいるのだろうと考えると怖くなります」として、実名をとてもではないが公表できない事情を説明している。

だがやむを得ないからといって、健常者なら名前と顔写真が公表されるのに障害者だから伏せられるということそれ自体が、紛れもなく障害者差別であることにはなんの変わりもない。

誤解されては困るのだが、こうした県警とメディアの対処で実際には配慮されている対象は、決して遺族ではない。その遺族を理不尽に攻撃し始めるであろう、不特定多数の差別するマジョリティが暴走しないための配慮なのだ。その匿名の加害者たちのなかには、自分たちがおおっぴらにそうした差別行為をできない「不自由さ」を、自分たちが抑圧され差別されているのに、「障害者」(差別の被害者側)には「特権」があって「無敵」だと言い張る者もいる。

この事件の被害者の45人は単に「障害者」とひとくくりにされて済む存在ではなく、名前も顔もあり、それぞれに自分なりの人生を生きて来たはずだ。

その本人や家族の歴史、人格そのものが無視されたまま、上辺だけの「やさしさ」や「悲しみ」だけが語られる、その裏側には植松聖がそう思い込んだように、「本音」では家族は障害者を疎ましく思っていて、社会は障害者をなんの役にも立たない厄介者だとみなしているのに、その「本音」はバッシングが怖くて言えない、その「本音」を言うことが許されない自分たちは被害者なのだ、という歪んだ認識がある。そういう者達の依存先になった(たとえ誤解であったにせよ)まま、それを支持者とみなしてしまっているのが、今の自民党政権でもあり、安倍政権である。

安倍政権が弱い権力、脆弱な父権であるという幻想

現実世界の鏡としてのフィクションの文脈のなかで、『リチャード三世』のような権力志向のサイコパスが産まれたのは中世封建制の文脈だ。そして近代の萌芽の時代の『罪と罰』のラスコーリニコフに始まり、『タクシー・ドライバー』や『キング・オブ・コメディ』、『ケープ・フィア』にいたるようなサイコパシーの系譜は、近代国民国家と資本主義の構造の中から生まれている。現実世界に目を向ければ、先にも紹介したように、精緻な記録が残るこうした大量殺人のもっとも古い例は1835年のフランス・ノルマンディー地方で起きたピエール・リヴィエールの一家惨殺事件だが、以降『タクシー・ドライバー』の模倣犯とみなされたレーガン大統領暗殺未遂犯や、1950年代アメリカのエド・ゲイン事件、戦前の日本でもっとも大きな殺人事件となった津山三十人殺しから、最近の例ではフロリダ州オーランドのゲイ・クラブで起きた49人虐殺事件に至るまで、そのいずれもが近代の国家や社会の権力・権威が父権制的なものであること故の暴発として分析され得るし、精神分析理論を導入すれば「父殺し」の衝動との関連性も無自覚な動機のレベルでは見い出されるだろう。

だが植松聖の犯罪は、そうした近代的な枠組みのなかのサイコパシーの分析からはみ出ている。

父権制的な価値観を体現する、家父長的な意識の延長としての国家や社会的な権威権力のあり方自体は、現代の日本では欧米諸国等に較べて明らかに強力な支配原理として厳然として維持されているにも関わらず、家庭内では父親は「大人=権威」として振る舞うことがなくなった(理由はどうであれ、植松聖の両親は家を出てしまっている)。社会全体では、権力行使の主体であるはずの「安倍晋三様」が、あろうことか重度障害者であるとか在日コリアン、旧被差別部落出身者、性的マイノリティ、あるいは女性といった、現実の日本社会の構造のなかでは相変わらず社会的弱者の立場に置かれ、不当な差別に苦しみ続けている人々や、あるいは戦後70年間まともに尊重されたことがなく常になし崩し的に運用されて来た日本国憲法や、成熟した高度資本主義国家である日本に較べればまだまだ発展途上で日本に憧れてすらいる中国や韓国といった周辺諸国に脅かされる “弱い父” “自由を奪われた脆弱な父権” だと、植松聖であるとか自民党ネットサポーターズクラブの会員たちに思われ、だからこそ支持されている。

彼らはその “弱い父” の「安倍晋三様」のため、“自由を奪われた父権” ができないことを彼らの代わりになったつもりで、植松聖なら大量殺人という直接の暴力を行使し、自民党ネットサポーターズクラブであればネット上ヴァーチャル空間での言葉の暴力と徒党のいじめで在日コリアンや障害者などなどをつるし上げることで、社会権威を覆す「革命」をやっているつもりになって、自己正当化できてしまえるのだ。

植松聖自身は孤独な非社会性パーソナリティ障害であるとしても、一見彼の同類に見えるいわゆる「ネトウヨ層」などはむしろ匿名性に自己を埋没させて金太郎飴的な自己欺瞞の共有に基づく集団性に依存した、依存性パーソナリティ障害の可能性が高い。一方でその依存性の徒党集団の崇拝的な支持を集める者達、たとえば「安倍晋三様」の言動には小児的な極度な自己愛性が見られ、その総体が共有する強固で歪んだ被害者意識に満ちた世界観の全体は、集団的な非社会性パーソナリティ障害の兆候を見せている。こんな社会的な文脈の中からは、一定の、かなり高めの確率で、植松聖のような人間が産まれ続けるだろう。

ネットをツールとした集団に依存する個々人が、そのような倒錯したパーソナリティ障害に至ってしまう生育環境として、インターネットに常にアクセスできてデジタル・ドメインが完全に生活環境の一部となった現状についても、ただ手放しにITの便利さの可能性を評価するだけでなく、心理学・生理学的な影響も含めてそろそろ真剣に検証すべだろう。だが現状、それ以上に差し迫った危機になっているのは、日本社会が近代主義的な父権制から構造的に脱却することを怠ったまま、単にその父権の側が脆弱化し幼児化する結果になってしまった、戦後リベラリズムの中途半端さの失敗だ。

そうした従来の父権的な秩序体系は、今回の事件でも措置入院による危険性の抑制がまったく機能しなかったこと、その措置入院自体が科学的な客観性という近代の絶対的価値を無視して行われたこと、「テロと戦う」と公言だけはする政府の官憲が大量殺人を予告した手紙に然るべき対応がまったくできていなかったことも、父権的権威たる国家権力とその統治機構が(障害者か在日コリアンか中国韓国か「反日勢力」に)「脅かされている」のではまったくないものの、実態は確かに(ひたすら自己矛盾と自己欺瞞のプチ自己崩壊を繰り返すことで)脆弱化していることを、如実に示してもいる。

社会全体が「やまゆり園」化している

事件を受けた津久井やまゆり園の記者会見もまた、こうした価値の喪失の時代を如実に体現するものだった。理事長は感情を露にすることを自制したかったのかも知れないが、かつての自分の部下であった植松聖の犯罪についても、職員だった時期の言動についても、「人権」や「尊厳」という本来なら極めて重い、入居者一人一人の人格の全体すら背負った言葉を、官僚的に繰り返しただけだった。

植松聖については、働き始めた当初に利用者の手にマジックでいたずら書きをしたという一件も挙げられていたが、しかしそのような不適切どころか差別的な行動をしてしまった職員をなぜ4年近く雇い続けたのか、どう再教育を行ったのか、津久井やまゆり園の運営上層部からは誠実な説明があったとは言えない。これでは植松自身の手紙にある「保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」というような障害者施設のイメージを、施設のトップたちが裏書きしてしまうことにしかならない。

この人間味に欠けてひどく官僚的だった運営側の記者会見自体が、健常者が被害者の事件なら過剰なまでにその善良さを讃えてセンチメンタリズムに耽溺するはずのメディアの報道が、この事件に限っては被害者が障害者だというだけで顔も名前も隠し、生前の逸話も一切伝えず、被害者にあたかも人格がない記号としてしか言及できないままに、ただ数字としての19人の死に涙を流す素振りを見せていることと、軌を一にするものにしか見えなくなる。

上辺だけではこの犯罪に怒り失われた命を惜しむことを装う語彙が空回りしながら、失われた命の価値を裏付けるリアルな何かがまったくない報道は、誰もが「差別している」と言われることを恐れて言わないだけで、植松聖やその彼に賛同する「ネトウヨ」層からみれば、彼(ないし「自分たち」)の犯行動機を社会全体が(被害を受けた障害者施設の運営側や、遺族でさえ)こっそり共有しているかのような印象ばかり、ひたすら裏書きしている。

被害者を匿名にしたことは、本当に正しかったのだろうか?

なにもベースになる情報がなければ、世間はまったくの身勝手な空想で他人のことを平気で決めつけるものだ。遺族が名を隠し無言のまま、その感情に関することも一切なにもでてこなければ、「厄介ものの障害者が死んでホッとしているのだろう」という、障害のある家族を抱えることと無縁な人々のあらぬ邪推も、また野放しにされてしまうことになる。

実名を出さないやり方で、直接の差別被害はある程度防止できる一方で、より大きな差別偏見が今回の被害者のような障害を抱えた人たちに向けられることにもなり、植松聖と実は同じ考えを共有してしまう人間は増え続けるだろう。そのほとんどは「差別だ」と言われるのを恐れて実名では口にしないのだろうが、だからこそ「言えない」ことに妙な被害者意識を高ぶらせる第二、第三の植松聖も出て来てしまうかも知れない。

自閉症のような障害のある場合、騒音の少なく緑が多い、広々とした環境は精神状態を安定させる効果が期待できるのだが、一方でやまゆり園のような施設が人口の密集していない、たとえば山間地にある場合が多いのは、人目を避けるためだろうと多くの人間が思っているのも現実だ。

実際問題として、いかに緑豊かで静かな、良好な環境が、施設の立地の第一条件であっても、そうした地理的条件の結果、施設が社会から隠されて来たのも確かではある。そうでなくとも日本ではまだまだ障害者の社会参加のハードルが高く、従ってその実数もなかなか伸びていない。東京都ですらバリアフリー化はまだまだ課題で、車椅子の人は特別扱いに遠慮しながらでないと外出すら難しい。それでも勇気を持って社会に出れば、妙に高邁な美談を期待される一方で「迷惑だ、わがままだ」という嫉妬に満ちた怨嗟を浴びせかけられることも恐れなければならない。

植松聖に命を奪われた19人の家族は、その怒りや悲しみを語ることすら遠慮せざるを得ない。「やまゆり園」のような施設が公金で運用されることにも、それがただ「憐れみ」として位置づけられているのが現代の日本の政治であり、家族は肩身が狭い思いでその「施し」を有り難がらなければ、いつバッシングを受けてもおかしくはない。そうした社会の無視と好奇のまなざしとに耐え続けても、その先に待っていたのが植松聖の犯罪だけでなく、その事件に向き合った時の、この社会のなんともぎこちない姿だった。

我々が知らないもうひとつの「やまゆり園」の姿

だがこの陰惨きわまりない事件をめぐるなかで、たったひとつだけ、しかし地に足がついて確かな希望を示すことがあった。

一連のささやかな希望の始まりは、定年退職した元職員の男性が深夜の事件の翌日にはさっそく取材に応じ、そこで語られたのが怒りではなく、命を奪われた入居者の人間性だったことだ。電気製品が大好きで、不安定な精神状態のときでも新製品を見せると目を輝かせて喜んでいたこと、たったそれだけのなかに、言葉も通じない気の毒な障害者としか我々が思って来なかった偏見を覆すような、その人たちの人間の尊厳の証が示されると同時に、その元職員自信がごく当たり前に人間であり、しかしだからこそ高貴な人間性もまた示されていた。

そして家族を突然にとんでもない犯罪の被害者にあった45人の被害者のうち、命だけは助かった人々の、高齢の両親たちがまず立ち上がった。70代や80代になった、つまり30年も40年、50年も障害がある我が子とともに生きて来た母親たちは、若い母親が思い通りにならない赤ん坊のことを、だからこそかわいくてしょうがないとつい自慢してしまうのと同じ顔で我が子について語り、ある父親は最愛の我が子の顔写真をテレビカメラに向けながら、「痛い」とも言えなかったその子の味わった痛みや恐怖を深く慮る言葉を、朴訥に語っていた。

そうした両親達の表情は、犯人への怒りを超えて、我が子の命が助かってとにかく良かったという感謝の素朴な慎ましさ輝いていた。今日は目が覚めて親の顔を見て喜んでくれるかも知れない、その期待を胸に病院に向かう両親の姿。重度の障害で普通の人生は歩めなくとも、いやそんな障害があるからこそ、親達にとってその子は「生き甲斐」であり「宝」、まさに「天からの授かり物」であり「神様の贈り物」なのだ。

この人々が立ち上がったのは、その背後に語れない遺族たちがいるからこそだ。そして遺族が失ったものの大きさを理解しようとしない「健常者」の、私たちの社会に、その重みを伝えるためでもある。

一人一人の障害者の人生が、私達に問う「生きることの意味」

重い障害を持って産まれた人や、高齢で認知症や脳血管障害を発症し、体の自由を失い性格まで変わってしまった親と向き合うとき、私たちが問われるのは人が生きることの意味、人間存在の価値をどう認識するのかそのものだ。

だが今の日本の現状では、現実の生活のなかでの介護の身体的・精神的負担が、この深く哲学的で人間的な問いを考える余裕すら、私たちから奪って行っている。「家族の絆」を強弁して高齢者の在宅介護を押し付ける政策が明らかに誤っている結果として、介護に疲れた子による高齢の親の殺害事件が相次いでいることも考えるとき、重度な障害を持った子どもと生きて行く親達のために、そしてその子ども達自身のためにも、やまゆり園のような場所はただ必要なだけではない。

その必要が隠される今の日本社会が、人間的な価値観を失いつつある結果として、環境要因、つまりは社会の歪んだあり方の影響で、理不尽で醜悪な憎悪を語り実行することに倒錯した承認願望を露にしてしまうサイコパスの状態の者達がいる。そんな日本社会は、このままでいいのだろうか? 失われた人間的な価値をどう回復するか、あるいはどんな新たな価値を見いだし得るのか? 介護をめぐる尊属殺人も多発する現状の日本は、どんな社会を今後目指して行くべきなのか?

その過ちや限界が凝縮されたのが植松聖の不気味な微笑みなのだとしたら、その真逆に向かうそのヒントが隠されているのが、テレビには映らずコメンテーターも語らないが、被害者の親達の言葉、表情、立ち居振る舞いに確かににじみ出る以外には我々にはまだ知る由もない、「やまゆり園」のもうひとつの姿なのかも知れない。


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