安倍外交のあまりに悲惨で無残な失態-邦人人質事件の結末を受け by 藤原敏史・監督

イスラム国による日本人人質事件は、湯川遥菜氏の遺体写真に続いて後藤健二氏の殺害も一方的な動画公開で通知されるという結末に、日本のメディアでは「国際社会」からの怒りと悲しみのコメントが相次いだかのような報道を続けている。

だが冷静に見れば、まず人が死んだ以上はお悔やみをいうのは万国共通の礼儀だし、こと首脳がそうしたコメントを出したアメリカ、イギリスはいずれも対イスラム国の「有志連合」の主導国であり、フランスはシャルリ・エブド襲撃事件を機にこれまで距離を置いて来たそのイスラム国攻撃に参加しようとしている国、つまり元からイスラム国の敵国だ。ここぞとばかりに「敵国」を口を極めて非難するのは、イスラム国が「悪魔の同盟」と彼らを非難したのと同じレベルの話でしかない。

キャメロン英首相の「evil」というコメントに至っては、敵を悪魔視するファナティシズムに於いてもまさに「同じこと」、イスラム国と「どっちもどっち」だろう。むしろイスラム国側が怜悧な計算でそういう言葉を対外的に意識して使っているのに対し、有志連合の側はただ内輪向けの感情論に見える。

安倍総理大臣は「罪を償わせる」と自ら声明に書き足した

内輪向けの感情論といえば、安倍総理大臣は事務方に準備させた声明に「罪を償わせる」と自ら書き足したそうだが、復讐宣言はいいのだが、いったいどういう手段で「償わせる」というのだろうか? 安倍氏のことだからまたぞろ「九条が足かせ」と言い出しかねないが、米国防総省ですらイスラム国掃討・壊滅は数年がかりの作戦になり、ただ武力攻撃だけでは終わらないことを報道官が明言したばかりだ。安倍氏は邦人救出のため自衛隊を、とも言っているが、国内法と憲法の制約以前に、そんなこと現在の国際法にたいていの場合は違犯する上に、そもそも軍事的に不可能な夢想でしかない。

この人質事件が発生してから、いやその前の中東歴訪、エジプトとイスラエルへの訪問中から、安倍氏は「日本はテロに屈しない」を連呼し、カイロで「イスラム国と戦う周辺諸国」への援助で2億円と演説し、イスラム国は最初の脅迫ビデオでその安倍の「愚かな決断」に対して捕虜人質を用いた脅迫をしているのだと明言している(この元音声は後藤氏殺害後やっとテレビ放映されたが、身代金とは言っていないし我々に払えとも言及がない)。さらに後藤健二氏殺害のビデオでも安倍首相が呼び捨てで名指しされ、「勝てるわけがない戦争」を戦う有志連合が揶揄されている。

つまりイスラム国が明白に、安倍の発言に言及されていた敵意に対して行動していると断言している時に、その事実関係を隠蔽した議論をいくら続けても、国内に引きこもった安倍政権の誤摩化しの自己正当化以外の、なんの意味もない。

「人道支援のはずが誤解された」と言ったところで、紛争の一方を名指ししてそこと「戦う」側を支援することを「人道」とは言わないし、2億ドルの使途を難民キャンプの運営や医療などの目的に限定したわけでもないのに、「誤解された」というのは「誤解されて当然」と言うより、「今さら誤解だという言い訳は成立しない」で話が終わるはずなのに、誰もそう批判しないこの大政翼賛っぷりはなんなのだろう?

政界では誰も政権を批判しない/できないまま、「イスラム国が許せない」の大政翼賛の空気

後藤氏殺害の報を受けたNHKの日曜討論には、各党の代表が顔を揃えながら、野党も与党も同じことしか言わない異様な大政翼賛会的ムードが支配していた。

司会者の背後には殺害ビデオの声明文の翻訳が終始映し出されながら、そこで安倍首相が名指しされていることを誰も問わない。むしろ与党自民を代表した谷垣氏が、これが安倍政権の失策だと分かっていてもそうは言えない複雑な感情からか、控えめな口調しか出来ないように見えるのに対し、野党側が共産党まで「イスラム国を許せない」をヒステリックなまでに繰り返し、政権の対応の誤りを指摘するものは誰もいないのだから不気味過ぎる。

この10日以上日本全国で盛り上がって来たかに見える「後藤さんの命を」が裏切られ、つい感情論に走ってしまうのは分からないでもないが、野党の側も、安倍政権に批判的な識者も、うかつに政権を批判しては大手メディア各社やネット世論からなにを言われるか分からない、という保身すら透けて見える。

だが安倍首相がカイロで言ったことは、イスラム国から見てというだけでなく、客観的にどう見ても敵視宣言、いわば実質上の宣戦布告であって“誤解”の余地などない。そして今、後藤氏殺害を受けて「許せない」だけでなく「償わせる」と言っているのは明白に復讐宣言だ。

「テロに屈しない」「テロと戦う」のならそれは戦争であり、戦争をやる覚悟なしにただ感情の流れで戦争を始めるのは、国家としてあまりに愚かだ。こういう時だからこそ感情ではなく理知的に、客観性を持って対応しなければならないのは、戦争ならば感情論だけでは決して勝てない、緻密で狡猾で現実的な戦略が必要だからだ。まして国内世論を気にした保身で与党も野党も大政翼賛で一致して、戦うはずの相手、敵も見えていないで、戦争なぞ戦えるわけもなかろう。

筆者はこの事件が表面化した時から、この背景には安倍政権に代表される日本の「重度な平和ボケ」があるのではないか、とあえて指摘して来たが、最悪の事態とはいうものの当然予想された結末を防ぐ手段をなにも講じられなかった今、それをあえて繰り返さねばなるまいのは、このまま後先も考えず、現実主義に根ざした批判も異論もないまま、大戦翼賛的な空気に流されたまま、日本がこの「テロとの戦争」に参加しようとしているからだ。

「交渉の仲介者」とはなんの「仲介」か?身代金の支払い以外考えられない

だいたい、安倍政権は人質事件が表面化した1月20日以来、「テロを断固許さない」と表向きは繰り返して来たが、実態はどうだったのか? 首相の中東歴訪に随行していた中山外務副大臣がヨルダンのアンマンに残って「現地対策本部」を指揮していたというが、「交渉の仲介者」を探し「情報収集に専念」していると称して、その対策本部はなにをやっていたのか?

帰国した安倍首相はまずオーストラリア、そして英国、さらにアメリカと、交渉しなければならない相手のイスラム国とは敵対している国の首脳とばかり電話会談を繰り返したのだが、英国は本来相手国の了解なしに公表してはいけないのがルールである会談内容を(つまり日本を裏切って)、あえてメディアにリークした。身代金支払いが話題になり、キャメロン氏が安倍氏に対し絶対に支払わぬよう明言したというのだ。アメリカ政府は国務省報道官に同じことを言わせ、駐日大使のケネディ氏がわざわざ政府に同様の申し入れをして、安倍オバマ電話会談となっても、オバマ氏が同じことを繰り返した。

これだけであまりに分かり易い実際の事実関係を、誰も指摘しないのも妙な話だ。

「交渉の仲介者」とはなんの「仲介」か?身代金の支払い以外考えられない。

実際には、このような事態では「テロリストと取引しない」は建前に過ぎず、機密費を使って身代金を出してでも自国民の生命を守ろうとするのは当然の外交カードのひとつだ。ただしフランスやトルコの例を見ても、取引に応じたことは秘密厳守、少なくとも公言は絶対にしないし、その限りにおいては他国も表立った批判はしてはならないのが、国際社会の紳士協定だ。

それをわざわざ英米が日本を繰り返し牽制したのは、アンマンであまりにも中山氏が指揮するという対策本部の動きがあからさまで、目に余るものだったからだと当然推測されるし、既にヨルダンの国会議員から、日本が身代金支払いも前提にイラク国内の宗教指導者などに接触していたことも証言が出て来ている。だいたい、こういう事態なら中山氏は大使館に宿泊し、極力その動きを報道に悟られないようにするべきなのに、わざわざホテルに宿泊し、大使館に出勤するたびに記者に囲まれてぶらさがり会見をやること自体が異常だ。

ところが後藤氏殺害ビデオの公表後、やっと1月20日の最初の脅迫ビデオの実際の音声が一部だけでも日本のテレビで放映されたが、そもそもイスラム国側は「身代金」と言っていないし、誰に対して2億ドルを支払え、とも言っていないのだ。ただ安倍がカイロの演説で約束した2億ドルをムスリムの家を破壊しムスリムを殺すためだと断じた上で、そんなことに使うのなら2億ドルは自国民二名の命のために払え、と言っているだけだ。

メッセージの中身を勝手に誤解して身代金を払う相手探しで奔走した安倍政権をあざ笑うかのように(というか明らかにそれが目的で)、イスラム国がやっと突きつけて来た実際の要求は、本来なら日本政府にとって無理難題の極みであったはずだ。ヨルダンで自爆テロ事件の生残り犯として死刑判決を受けている、その死刑囚の釈放というのは、完全にヨルダン政府の主権の範疇で他国が要求したり要請したり出来ることではない。

「テロリスト」の要求に従って他国の主権を侵害しようとした安倍政権

ところが口先だけは「テロと屈しない」と言い張る安倍政権は、他国の主権を侵害する要請を平然と繰り返し公言した上に、恐らくは官邸や外務省からブリーフィングを受けた大手メディアが、これまで日本政府がヨルダンに対して行って来た円借款などの経済援助を一斉に報道して「ヨルダンは親日国」と言い始めたのだ。

繰り返しになるが、これは国際政治のルール上本来ならあり得ない非常識であるだけではない。金を持ち出して恩を着せるとは、やられた側にしてみればとんでもない屈辱だ。

裏交渉で完全に秘密を守るならともかく、少なくとも表向きには日本政府が言えるのはただひとつ「我が国民の人命は大事だが、友好国ヨルダンの主権を侵害してその国民を侮辱することは出来ない」だったはずだ。裏交渉ではどれだけ強気で要求したとしても、おおやけにはあくまでアブドラ国王の顔を立てなければ、国王自身国民の反発も気にせざるを得ないし、国家としての名誉もあるのだから、あからさまに日本の言いなりでは動き様がない。

なのに安倍政見は「強く要請」とひたすら繰り返し、官邸前で安倍政権に抗議するはずの、後藤氏の仲間であるフリー・ジャーナリストらのデモは、より非常識で侮辱的な強腰の態度を安倍に要求していた。

だいたいリシャウイ死刑囚と昨年暮れにイスラム国に捕縛されたヨルダン空軍のカサースベ中尉との交換は、確か以前にも検討されてヨルダン政府が国民の支持が得られそうになく却下した話のはずだ。それを日本政府が「日本人の人命を」で同じ死刑囚の釈放を要求してくれば、いったんは諦めかけていた中尉の親族も黙ってはいられないし、ヨルダン国民全体が侮辱と受け取りかねない。

ところがヨルダン政府との最初の事務レベル接触でその中尉の話が出て来たことを、日本政府は真っ先に日本のメディアにリークし、勝手に2対1の捕虜交換をあたかも既定路線のように言い始めて、あっというまに夕刊の見出しに踊ってしまったのである。

いやそれどころか、アンマンに現地対策本部を置いたのは、最新の外務省からのリークによれば、カサースベ中尉とリシャウイ死刑囚を交換する話があったのを狙ってだったらしい。だとすれば日本政府は最初から、ヨルダン政府の人質交換交渉に割り込んで自国民の救出を計るよう「要請」というか実質強要することも選択肢にしていたことになる。

しかもそんな後ろめたい意図までイスラム国に筒抜けで、まんまと足下を見られただけでなく、ヨルダン国内にとんでもない禍根まで残してしまったのが安倍外交だ、と言うことにもなろう。

安倍外交の拙速が招いた、イスラム国にとっても想定外だった有利過ぎる展開

国王がわざわざ中山副大臣と面会し(たかが副大臣に、元首としては異例の厚遇)協力を外交辞令として申し出たのは、リシャウイ死刑囚の解放要求が出る前のことだ。その中山外務副大臣は、いったい現地対策本部でどんな「情報」を収集していたのか、首をかしげざるを得ない。

ヨルダンがイラク側のイスラム国を攻撃する有志連合に参加し、空爆を主導する米軍に基地などを提供しているのは、決してヨルダン国民の支持を得ている方針ではない。

ヨルダンはただ立場上、英米には基本従わざるを得ないだけだし、この地域の今の国境というか個々の国の存在自体、第一次大戦が終わった1917年にオスマン・トルコ帝国が崩壊して以降徐々に決まったものに過ぎず、現代でこそ別の国になっていても、国境を隔てて親戚も多いのが、もともと大家族主義のアラブ人の文化だ。イスラム国を支持する人は同じスンニ派が多数派であるヨルダンでもほとんどいないとは言っても、欧米がそのイスラム国掃討を掲げることは植民地侵略にさえ見え、まして空爆で死傷者も出るとなれば、決して諸手を上げて賛成できることではない。

ヨルダンは民主主義の国ではない。アラブ諸国の王制のなかでは穏健で強権的ではなく市民への暴力的な弾圧などはまずないのがハシーム王家とはいえ、逆に言えば政権基盤が弱いから国内の各勢力にも配慮しつつ、イスラエルにも欧米にも敵対的な態度はとれない。その国民が欧米への追従も「やむを得ない」と思って来てはいても、我慢にも限度というものがある。そのギリギリの琴線を、日本政府は傍若無人にも踏みにじってしまったのではないか。

この展開は、さすがのイスラム国側でも想定外だったろう。そもそも安倍が事実上の敵視・宣戦布告ととられる発言をしたことへの対応とはいえ、目標はせいぜいが大恥をかかせ、あわよくば退陣に追い込む程度のこと、イスラム国にとっては危急の、直接の利害ではない。

ところが日本政府が非常識にもヨルダンを巻き込んでしまい、がぜんイスラム国には(恐らくは想定外の、最初は驚き呆れ困惑しそうな)有利な状況が生まれてしまったのである。

こうして後藤健二氏が殺害されるに至った展開のなかで、日本はすべてを無責任にも公然とヨルダンに丸投げした結果、完全に蚊帳の外になってしまったのが実態だ。それも後藤氏自身が読まされた脅迫声明で「ボールはヨルダン政府にある」と明言されるほどの愚弄されっぷりだ。

イスラム国がこの好機を得て定めた明確な目的は、ヨルダン国民のあいだに有志連合に参加することへの反発を広めることだ。

いやその反発は元からあった。それを日本がよせばいいのに顕在化させてくれたのだから、この際徹底的に刺激して、ヨルダンが有志連合に留まれないことになれば、イラクのイスラム国を攻撃するアメリカがその前線基地を失うことにすらなる。

昨年8月から米軍の空爆が始り、ケリー国務長官は既に6000人のイスラム国メンバーを殺害したと、戦果を誇示している。シリア側のイスラム国の攻撃は地中海に展開する空母などからも行えるが、イラク側のイスラム国支配地域を攻撃する最前線は、イラクのマリキ政権がイスラム国以上に残虐な、民族浄化政策すらやっている以上は深く関わりたくない米国にとって、ヨルダンこそが最適地である。

「テロと戦う」のなら、人質の見殺しは覚悟しなければならない

その米国政府は、いざヨルダン政府が自国軍の中尉との捕虜・人質交換交渉を始めた時点で、国務省報道官が「テロリストと取引はしない、というのが我々の立場」とだけ記者団に答え、少なくとも公的チャンネルではヨルダン政府にはなんら圧力をかけていない。ヨルダン政府の側も死刑囚と中尉の交換が絶望的と判断するまでは、一切の情報をメディアに流すことがなかった。それがこういう交渉では当然の態度であり、関係閣僚会議の冒頭にわざわざ報道陣を入れて安倍が滔々と上滑りする言葉を暗記棒読みする姿をテレビで流させるような日本政府は、あまりに非常識だ。

日本政府が公然と、後藤健二氏解放のために死刑囚を解放しろとヨルダンに圧力をかけ続け、後藤氏を救えと言うフリーランスの、政府に批判的なジャーナリスト達までが(ジャーナリストなのにこんな常識も分からないのか、と呆れる)安倍政権にヨルダンにそれを強要するようデモまで始めた結果、アブドラ国王はカサースベ中尉の解放を第一に掲げる以外に選択肢がなくなり、中尉の安否確認がとれない限りはリシャウイ死刑囚を国外に出すことは出来ない、と言うしかなくなってしまった。

その悲しむべき、しかし当然としか言いようがない結果が、後藤健二氏の殺害だった。

カサースベ中尉の方は、イスラム国がその安否確認を求められた途端に沈黙したことを見れば、恐らくすでに亡くなっている可能性が高い。後藤氏殺害映像の公表の次に出すカードは、カサースベ中尉が亡くなっていることだろう。死因としてあげられるのが「米軍の空爆」となる可能性は高いし、ヨルダン政府はそうイスラム国が言い出すことに戦々恐々としているだろう。

後藤健二氏を殺したのはイスラム国じゃないか、安倍首相を責めるなんて、とか平和ボケした子どものへ理屈はたいがいにして欲しい。「テロとの戦争」「テロリストを許さないのが日本の正義」とか言うのなら、最初からその「正義」はそもそも後藤・湯川両氏を見殺しにする覚悟なしには、成立しなかったはずだ。

テロと戦う、断固として許さないと主張することにも一定の正当性はある。だが相手がすでに国としての実態を持つイスラム国であり、しかも共鳴する急進派が世界各地にいると想定されるなか(既に人質事件に呼応して、エジプト軍・警察が30余名殺害されるなどの、事件は各地で起こっている)、それが日本国とその国民にとってどのようなリスクを抱えた決断なのか、政府は国民に説明すべきだし、その議論をきちんと分析的に行うことこそが、メディアとジャーナリズムの責任のはずだ。

それにしてもまず最初から、なぜ安倍首相は「イラクとシリアの内戦は深刻で、多くの難民が出ていることを憂慮する」とでも言っておけばいいところを「イスラム国と戦う国」と名指ししてしまったのだろう?最新情報では、とある政府高官が「なにも考えていなかった」と明かしたらしい。「イスラム国がどんなもので、なに考えているのかもさっぱり分からねえし」という、その発言の主は政府高官といえば閣僚クラスを指すわけで、内閣の内部にも、安倍の外交が非常識で危険だと知りながら止められなかった人物(だいたいの見当はつくが、恐らくは自身が総理経験者)もいたのだ。

イスラム国を「国ではない」という無意味で倒錯した主張

後藤氏が殺害された今だからこそ、冷静に確認すべきことがある。

イスラム国との「戦争」を、安倍もメディアも国際社会に歩調を合わせてというが、その国際社会とは英米など一部が主導する一部の国でしかない。実際にイスラム国攻撃に参加しているのは2003年のイラク戦争と同様「有志連合」だけだし、トルコや参加国であるヨルダンなどイスラム国の周辺諸国は、安倍がカイロでの演説で言ったように単純に「戦って」なぞおらず、一方では妥協や交渉ごとも出来る可能性を常に残している。

安倍首相は「イスラム国は『国』ではない」というわけでしきりと「ISIL」という呼称を用い、メディアにもそれに同調する発言が多く出て来ている。NHKなどはドバイ支局長がわざわざ帰国して「勝手に国を名乗っている」などと繰り返してまでいるが、ISILないしISISという呼称は Islamic State of Iraq and the LevantないしIslamic State of Iraq and Syriaの頭文字で、Stateつまり「国家」「国」だ。

イスラム国の支配が正当かどうかは無論議論すべきだし、今のところ承認すべきだとも思えないが、とはいえ実際にある一定の地域を支配してその住民を国民として統治し、食糧の配給なども行い、統治機構も持っている以上はすでに国、国家としての実態は持っている。その統治理念が我々の現代社会のそれとは相容れないからと言うだけで、統治の実態がある現実を否定しても始らない。

「残虐なテロリスト」といくら日本の国内メディアで言い募り、アラブ人=野蛮かアラブ人=可哀想という“上から目線”ステレオタイプの優越感に耽溺したところで、外交に関してもインターネットを駆使し各国の政府やメディアの反応を計算した臨機応変の情報戦と心理戦を仕掛ける戦略でも、イスラム国側の方が遥かに巧妙で圧倒的に狡猾、成果も上げている現実は変わらない。

そもそもイスラム国の中枢には、その前身「イラクのアルカイーダ」時代から、宗教原理主義組織というのはかなり名ばかりで、イラクの旧フセイン政権の官僚や軍人が相当に入り込んでいる。外交にかけても謀略にかけてもプロフェッショナルたちがこの人質事件の背後にいる現実を無視して「野蛮なテロリスト」と決めつけ続けた結果、日本政府も欧米各国も、国境線の引き方と民族構成からして統治不能とも言われたイラクをその民族間の微妙な権力バランスを利用して「独裁」として統治し続けた旧バース党の持つ経験豊富な奸智に、ただ翻弄されているだけではないのか?

人質事件をきっかけにイスラム国への関心が高まり、メディアはその国内支配や国際戦略がいかに「野蛮」かを繰り返し強調している。

確かにイスラム国は、たとえば公開処刑なども頻繁に行っているらしいし、とりわけクルド少数民族やヤシディ教徒への虐待・虐殺はすさまじい。だがだから「国ではない」と言い張るのなら、イラクの正当政権として国際的に承認されているイラクの現マリキ政権もクルド人を虐殺しているし、それどころかフセイン体制時代に主導的な立場にあった、人数的には少数派になるスンニ派への弾圧は、それこそ公開処刑も頻繁に行われ、村ごと、町ごと破壊され虐殺されるなど、民族浄化ではないかという指摘も国連などでは提起されているのに、ほとんど無視されている。そのマリキ政権も有志連合の一員では一応あり、今ではスンニ派虐殺を「テロとの戦争」だと主張しているからだ。

イラク戦争の失敗の反省と、アラブの春の挫折抜きに、イスラム国は論じられない

イラクがこうなってしまった理由は、言うまでもなくアメリカが2003年からの対イラク戦争で、微妙な民族構成のバランスを辛うじて維持して来たフセイン体制を倒してしまったからだ。数では多数派のシーア派が選挙で実権を握り、スンニ派の弾圧につながることは十分に予測できたはずなのに、アメリカは有効な説得を出来ないまま虐殺すら許容してしまった。イラクでイスラム国が大きな勢力を持つに至ったのは、スンニ派イラク市民の生存の必然的な結果でもある。

その実態は宗教の運動ではなく、アメリカに潰された旧政権の残党を中心とする、反米主義で汎アラブ主義の、優れて政治的な動きだとみなした方がよほど実態を正確に把握できる。なにしろイスラム国の中枢で戦略を練り実行しているのは「テロリスト」ではなく、元来強固な世俗主義・非宗教の汎アラブ主義を掲げて来たバース党運動の流れの人たちではないのか?

イスラム国がシリア側でも勢力を伸長しているのにも、似たような事情があることは無視すべきではない。しかもこちら側の原因はもっと最近のことで、2011年のアラブの春でシリアで起こった民主化の動きを、やはり国際的に承認されてはいるアサド政権が強硬に弾圧した結果、シリアが激しい内戦に陥ったからである。

そのアラブの春を当初は歓迎するように見せながら、結局は自分たちに不都合だとの判断で潰して行ったのもアメリカでありヨーロッパであり、これには対イラク戦争には参加しなかったフランスも深く関わっている。

安倍がイスラム国との敵対姿勢を鮮明にしてしまった演説をやったカイロは、欧米によるアラブの春潰しを象徴する都市になっている。選挙の結果成立したムスリム同胞団の政権を「イスラム原理主義」で「テロリスト」と断じてエジプト軍に潰させ、いわゆる普通の宗教保守庶民派でしかない同胞団だけでなく、中産階級の若者中心の民主化運動まで弾圧した軍政の、バックにいるのもアメリカだ。安倍の訪問と相前後して、革命で断罪されたムバラク元大統領を無罪放免までしている。

アラブの春よりもずっと以前に、パレスティナ自治評議会選挙でいわゆる「テロリスト」のハマス軍事部門とは一線を画す姿勢を鮮明に打ち出したハマス政治部門が大勝した時に、その正当性を認めなかったのはまだブッシュ政権だった頃のアメリカであり、ヨーロッパだった。

結局、アメリカやヨーロッパの旧植民地宗主国とって、自分たち以外の発展途上国が本気で民主化することを本音では歓迎しないどころか、アラブ世界ならそれまであった半植民地傀儡政権と国民から見られて来た政府(たとえばヨルダンがそうだ)や、場合によっては軍事独裁の方が都合がいいと考えているのだろう。それがイスラム国のような運動には賛同しない普通の、現代的で世俗化されたアラブ人の多くにとって、あからさまな現実の偽善に見えることを、我々は忘れない方がいい。

たとえばそのアメリカがオバマ政権に変わっても、イラク戦争には開戦を正当化する理由すらなかったのを未だに謝罪も反省もしているようには見えないことが、アラブ人からみればどれだけ屈辱的であるのかも、日本は「国際社会が」などと安易に欧米に同調することなく、きちんと見据えるべきだ。

昨年おおいに話題になったイスラエルとガザのハマスの戦争も、イスラエル軍は「自衛の戦争」を主張しながら、「コラテラル・ダメージ」つまり「やむを得ぬ巻き添え」として多数のガザの一般パレスティナ市民を殺している。現代の国際法や欧米主導の国際秩序では、あくまで軍事目標攻撃に伴う「コラテラル・ダメージ」であると主張するだけで、その殺傷行為は合法化されてしまう。

そのガザ戦争の直後、8月から始まっている対イスラム国の「テロとの戦争」を称する米軍の空爆は、当然ながらイスラム国の政権中枢や活動家だけでなく、その統治下にある一般市民も「コラテラル・ダメージ」で殺傷している。日本のメディアはイスラム国支配地域からの難民を、イスラム国の残虐性から逃げた人たちのように報道しているが、空爆開始後に難民が激増していることを見ても、よりその土地のアラブ人の人たちにとって危険なのは空爆であり、またイラク側ならマリキ政権の(欧米に黙認された)スンニ派虐殺もあり、シリアではアサド政権とイスラム国を含む複数の反政府勢力が激しい内戦を続けている、そこで民衆が弾圧されたり虐殺すらされていることこそが、難民が増加する原因になっている。

イスラム国を産んだのは、西洋の中近東への介入と支配の偽善と失敗

イスラム国がなぜイラクとシリアにまたがる領域を支配しようとするのかは、さらに歴史的な背景に遡らずして語ることは出来ない。第一次大戦以前はイラクとシリアという国境なぞもちろんなく、オスマン・トルコ帝国の一部だった。トルコがドイツの同盟国であったことから、イギリスはその支配下にあったアラブ人の独立運動を支持し、イギリス軍将校T.E.ロレンスがアラブ旅団としてゲリラ戦を展開、現在はシリアの首都になっているダマスカスを陥落させたのもそのアラブ人ゲリラ部隊だった。映画でも有名な『アラビアのロレンス』である。

だがその映画でも明確に描かれているように、イギリスはアラブ独立運動にトルコと戦争をさせながら、裏では終戦後のアラビア支配についてフランスと密約を交わしていた。いわゆるサイクス=ピコ協定で、現在のシリアとイラクの国境はこのときの分割支配の境界線がほぼそのまま踏襲されている。

ちなみに映画『アラビアのロレンス』はイギリス映画だがプロデューサーはユダヤ人、なのにイスラエルとアラブ諸国が国交断絶で戦争状態の時代に、主にヨルダンで撮影されている。つまり、ヨルダンはイギリスの委任統治を経て第二次大戦後に独立して以来、そういう国なのだ。

だがこの映画は一方で、イギリスの二枚舌外交の欺瞞と謀略だけでなく、イギリス軍が持っていたアラブ人を「野蛮」「残虐」とみなす差別偏見にも厳しい目を向けつつ、クライマックスでもっとも野蛮で残虐な殺戮行為を指揮してしまうのはイギリス人であるT.E.ロレンス自身だ。せめてこれくらい見ておけば、まだ安倍政権の中枢にある人たちが今回の人質事件でここまで拙速で拙劣なことを繰り返しはしなかったのではないか、とすらつい思ってしまう。逆に言えば安倍氏が子どもの頃に大ヒットした映画で学べる程度の基礎的な教養すら、今の日本政府の外交には欠如している。

「テロリスト」という ”絶対悪” レッテルのあまりに曖昧な定義

言うまでもなく、T.E.ロレンスが率いたアラブ独立運動のゲリラ戦闘部隊は、一応ムハンマドの系譜を引くとされるハシーム家(現在のヨルダン王家と同じ)のメッカのファイサル皇太子(後のシリア国王、そしてイラク国王にもなったファイサル一世)の命を受けて活動してはいたが、非正規軍のゲリラ、今で言えば「テロリスト」と呼ばれるはずだ。とはいえ民族独立運動や革命運動はたいがい、そういう実力行使を伴うものではないか?

ではイスラム国を「国ではない、テロリストだ」と言い、その「残虐行為」を「断じて許さない」と日本政府が言い張ることには、いかなる正当性と、なによりも将来的な展望があるのだろうか?

もちろん、たとえばこの人質事件のように、確かに現にやっていることは我々日本人のような先進国民の感覚には理解し難くても、少なくともたとえばサイクス=ピコ密約を不当と断じ、今に至る中近東の混乱の無秩序の源流とみなしその解消を目指す主張には、明らかな正当性があり、反論の余地はほとんどない。

またイスラム国をただ宗教原理主義とのみみなすことも大きな誤解だろう。なるほど「正統カリフ国」を名乗り極端に厳格なシャーリア(イスラム法)解釈を強要する統治は宗教に基づく恐怖政治だが、それは実際には、恐らくは彼ら自身にとってひとつの手段に過ぎない。

例えば我々が信じているような近代民主主義の価値観が、アラブ人に対しておよそ本来の平等理念に基づいて施行されて来たとは言い難い、欧米(そして日本)の植民地主義に毒されて来た近現代の世界“秩序”(とみなすのも、先進国の側だけだ)の欺瞞性に対する、分かり易いオルタネイティブとして選択されたものに過ぎないのではないか?

中近東をめぐる欧米の歴史修正主義

後藤健二氏の殺害を伝えるイスラム国のビデオの声明で、少なくとも一点、こればかりは正しいと我々も認めざるを得ない言葉がある。有志連合が今やっていて、日本もまたなし崩し的に事実上その一部となろうとしている戦争は確かに、勝ち目のない戦争だ。

そしてそこには、安倍政権とその官邸の言いなりの日本の大手メディアが我々に信じ込ませようとしていて、今や野党まで声高に言い張っているような正当性も、実はない。

後藤健二氏は紛争地の子どもたちを「かわいそう」と報じて来たとして、今や(その実、日本政府の度重なる失態を隠すために)美化されているが、「かわいそう」、殺された後藤氏が「気の毒」だと言うだけで、それがほんとうにジャーナリズムと言えるのだろうか?

確かにこの地域の事情は現在、恐ろしく複雑化しているが、原因を辿ればそんなに難しい話では実はない。なのに日本の報道が、いつまで経ってもそこに言及しようとしないのはなぜなのだろうか?

イスラム国を産んでしまったこの歴史的にはレヴァントとも言うひとつの地域、北アラビアの混沌は、西洋が度々この地域に介入し利権をむさぼり欺瞞を重ね、失敗を繰り返しながら、そのことをまったく反省しないどころか、歴史的事実を認めようともしないだけでは済まず、知ろうとすらしていないことにこそ、根本的な原因があるのではないか?

欧米では現在、ホロコーストを否定したりその史実を歪めたり、ユダヤ人を差別する言説はヘイトスピーチとして厳しく弾劾される。フランスの風刺週刊紙シャルリ・エブドは以前、イスラエルのネタニヤフ首相が支持を広げるのに宗教を利用していることを揶揄した風刺画家を、右派ユダヤ人団体の抗議を受けて解雇している。なのに宗教風刺というよりただの差別にしか見えないイスラム教の風刺画と称するものは繰り返し掲載され、襲撃事件が起こり、同紙は表現の自由の英雄に祭り上げられた。

後藤健二氏の殺害について「人命は尊い」として非難すること自体は正しい。だがたとえば米国のケリー国務長官が「残虐な殺人行為を許せない」と言っているのは、つい先日イスラム国関係者を6000人殺したぞ、と自慢したのと同じ口である。「テロリストを殺したのだ」と言う時点で人道主義、人道支援はもはや主張できないし、その6000人の殺害の「コラテラル・ダメージ」で言及すらされない多くの、イスラム国支配地域の一般市民の犠牲もある。

安倍首相は「テロリスト」に「この罪を償わせる」という。

そのために「国際社会と連携」とも言っているが、イスラム国を「テロリスト」と断ずるのは「国際社会」ではない、欧米だけだ。「イスラム国と戦う周辺諸国」と安倍氏はカイロで演説したが、その周辺諸国の人々はイスラム国を「テロリストだから悪」とはみなしていないし、だからと言って賛成しているわけでも無論ない(あんな強引なシャーリア支配を好む人がそういるとも思えない)が、かといってスンニ派ムスリムをイラクのマリキ政権が虐殺すらしているのを黙認する米国が、同じアラブ人で(それも繰り返しになるが現在のアラブ諸国の国境線はごく最近のものに過ぎず、大家族主義のアラブ人の親戚・友人関係はその国境と無関係に広がっている)、今はイスラム国支配地域に住む人たちを空爆していることを、快く思っているはずもない。

この事件の教訓は、内輪の論理に終始する単純化された結論に走らないこと

安倍政権は自らの認識不足と無知と無思慮、そして国際問題であることを終始ひたすら自分達の国内向けの人気取りと空威張りにしか利用せず、国際政治の常識的な礼儀やルールすら踏まえることが出来ないまま、救えるかも知れなかった後藤健二氏すら見殺しにしてしまっただけではない。ヨルダン政府も、アメリカの有志連合の立場も危うくし、むしろイスラム国に有利な状況を作り出してしまっただけでも済まず、今はなし崩しにその勝ち目のない戦争に(大義名分も実はなく)参加しようとしている。

ではどうするべきか、という安易な結論を即座に求めないで欲しい。今回の事件をめぐる日本政府の失敗のもっとも根源的な原因は、よく知りもせず、勉強もせず、考えもせず、行き当たりばったりの自己正当化と安易なポピュリズムの感情論に終始してしまったことだ。まさに安易な結論を即座に求めずに、まず自分たちの認識不足を自覚し、よく考えることこそが、今求められているはずだ。

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