イラク戦争で160人を射殺して米軍の「伝説」となった狙撃兵クリス・カイル。実在の人物でありながら、彼について語られたことも、彼が自らについて語ることも(この映画の原作はその自伝だ)、なにか現実離れして思える。しかしこのクリント・イーストウッド作品はヒーロー・ファンタジーについての映画ではあるかもしれないが、映像も音声もリアリティの行き着く果てにリアリズムすら凌駕し、ファンタジーであるはずの物語は強烈な悪夢として始まる。真っ暗な画面に遠くから「アッラー・アル・アクバル」とイスラム教の祈りの朗誦が聴こえ、なんの音かなかなか判然としない規則的な重低音が響くなか、いきなり「アメリカのヒーロー」であるはずの主人公が、母親とおぼしき女と、その年端もゆかない少年に照準を当てているのだ。
言葉やストーリーでは伝えきれないことをこそ見せる映画
冒頭の照準器のなかの母子と、狙撃銃の向こうのクリス・カイルのアップから、『アメリカン・スナイパー』は主人公の体験をひたすらその視点から見せる映画であるが、同時に、そして静かに、これはその見ている男をこそ見つめる映画でもある。主演のブラッドリー・クーパーは一見、感情を表情に露出させない演技に徹するようでありながら、だからこそ顔と身のこなしの微妙な変化に現れる、感情にすらなっていない(意識されない)、本人が自覚すら拒否している葛藤をも、確かに刻印し続ける。
ヒーローであるスナイパーが母親と子供に照準を合わせる冒頭シーンが、スナイパーになるまでのカイルの前半生を見せるフラッシュバックのプロローグを経て繰り返されるこの映画に於いて、言語/物語情報として伝達されているかに思えるものと、実際に我々が見ること、聴くことの差異を見落としてはならないのは、そこにこそこの映画の構造の根幹があるからだ。ストーリーだけならあたかも、イラク戦争で活躍した愛国者の英雄譚ともとられ得るし、実際そのことでイーストウッド(自身は頑固な共和党支持者としても有名)を称賛する保守派と批判するリベラル双方の評が、アメリカ公開時に衝突していたのだが、その賛否双方の声はまったく「映画」を見ていない、あるいは「聴いていない」が故にまったく的外れだ。確かに、この母子は対戦車手榴弾で武装していて、だから米海兵隊部隊の危機を阻止したクリス・カイルは「英雄だ」と言えるのかもしれない。しかし武装していれば女子供といえどもテロリストだから殺すべきだ、と実際の映像を見て割り切れる観客はいまい。むしろ、冒頭でなんの音か判然としなかった規則的な重低音は戦車の走行音だったのだが、このアメリカの悪夢の本質は、見えている戦場以上に、まだなにも見えず、従ってなんの音かも分からないまま聴こえて来る音の不気味さによってこそ醸成されている。
「人間には三種類ある。ほとんどの人間は自分を守ることもできない羊で、その羊を狙う狼がいる。そして狼から羊を守る牧羊犬になる特別な人間になれ」と、クリス・カイルは子供の頃に父に言われる。
これを文字通りこの映画のモットーと受け取ることは、ちゃんと見ていれば相当に難しい。父が食卓で息子たちにこれを説く食卓というのは、少年クリス・カイルが学校で喧嘩をやって問題になったから(つまり父は叱る気である)という状況で、父は折檻のため革のベルトを外してテーブルに乱暴に、叩きつけるように置き(つまり家庭内であっても暴力は厳然とそこにある)、怯えた弟が、兄が自分を守るために大柄ないじめっ子をやっつけたのだと告白する。父の言う表層上はもっともらしい言葉とは裏腹に、それは暴力の威圧、脅しの文脈の中にあり、ここでも語られる言葉や表層の物語構造が説いているかに見えることが、実際の映画で見せられることと、聞こえる言葉ではなく音によって揺さぶられ、覆され、言語化され得ない闇が口を開けているのだ。
クリント・イーストウッドと暴力という病、そして死
暴力性の問題は、クリス・カイルがイラク戦線でスナイパーになるに至る過程のフラッシュバックのあいだ常にそこにあり続ける。特殊部隊の訓練が、アクションなき反復継続する暴力描写として見せられながら、訓練を受けるクリスたちはそれを暴力とは受け取っていないのだ。見せられている映像は壮絶な暴力と屈辱の連続なのにあえてほとんど単調とすら言える機械的な手際で見せられる訓練シーンは、冒頭の最初はなんの音か分からない重低音の不気味で規則的な機械音と性質が共通している。主人公に見えない/見ないところで、その人間性を単調に、徐々に、催眠効果のように侵食していく。
暴力の伝染性、暴力に晒されることが主人公の人間性を蝕んでいく過程―イーストウッドはこれまでも、しばしば復讐物語の枠組みを借りながら、実はその暴力の病理としての伝染性の問題をこそ見せて来た。イーストウッドの映画世界に於いて暴力は正義の手段でもなければ悪の側として意味づけされるのでもなく、人間性の一部ではあっても人減が人間をどこかで超越した時の禍々しい異化性が、主人公の暴力であるか敵役・悪役のそれであるかを問わずそこにあり続け、そのことでイーストウッドはアメリカ映画のアクションのジャンルを刷新して来た。
『荒野のストレンジャー』『アウトロー』『ペイルライダー』といった西部劇の主人公たち、あるいは『ダーティーハリー』シリーズのうち自分が監督も兼ねた作品、特にその第4作や、演技者としての大きな挑戦から自身で監督はしなかった『タイトロープ』、それに『ルーキー』や『ブラッドワーク』などの刑事ものの主人公達も、その主人公の分身、アルター・エゴとなる殺人者たちも、イーストウッド映画に於いてはいったん過剰な暴力、あるいは死に晒されることで、既に「人間」ではなくなっていて、それ故に超人的なヒーローないしアンチヒーローとして暴力的なアクションに身を委ねることが出来る。『アウトロー』と『ペイルライダー』に至っては主人公はどう考えても一度は殺されている、幽霊という裏設定で、一線を画して西部開拓時代のリアリズムを追及したかに見える『許されざる者』でさえ、却って主人公がいったんは「死にかける」過程をむしろ執拗に見せ、それが彼が突然変容し、映画自体の位相もまた生ける者の泥臭い、およそかっこよくないぐずぐずの暴力の世界から、死者達の支配する悪夢へと変容する伏線となっていた。
『ミスティック・リバー』で少年時代に性的虐待を受けたティム・ロビンスは、その事件で一度は「死んだ」自分を「吸血鬼」と形容する。『グラントリノ』の主人公は末期がんの宣告を受けるし、その一方で朝鮮戦争の体験に苛まれていると同時に、現代のアメリカ社会でもはや「生きて」はいない頑固で旧弊な老人で、映画は彼の唯一の理解者だった妻の葬儀から始まっていた。つまりこの主人公は最初から、生きながらにして既に「死んで」いたのだとも言える。
西部開拓時代や犯罪捜査の最前線、あるいは『ミスティック・リバー』のボストン労働者階級スラム、『グラントリノ』の自動車産業の凋落で荒廃したデトロイト近郊住宅地転じて移民スラム(その意味でこの自然体の飾らない人情譚は、一方でアメリカの死と再生の寓話にもなっている)といった、暴力が厳然として社会に存在している状況と較べて、『アメリカン・スナイパー』の時代のアメリカでは既に暴力は一見排除されているように見える。
平和な社会から隔絶し、暴力を植え込む新兵訓練
入隊するまでのクリス・カイルが接する暴力は、狩の猟銃やロデオという暴力的男性性の文化的表象物以外は、主に家庭内や痴話げんかのそれだけだ。そこにテレビのニュースとして、テロリズムの暴力が流れ、それが主人公達の人生の選択を決定づける。だがテレビ画面以外では一応は平和で暴力が排除された社会だからこそ、特殊部隊の訓練は暴力が見えない普通の生活から人間を隔離し、人工的に暴力的な環境下に置いて強引に変化させる(暴力性を伝染させ植え付ける)プロセスとして、まるで大量生産の工場かなにかのように、妙に規則的で効率的なリズムで見せられ、個々の映像と言葉/音それ自体、そして映っている行為の暴力性と、なにか工場の流れ作業でも見ているかのようなモンタージュの機械性のあいだに、居心地の悪いアンバランスさが醸成されていく。しかし、だからと言って『アメリカン・スナイパー』におけるブートキャンプ描写は、既存のヴェトナム戦争の時代の新兵訓練を扱った映画、例えばロバート・アルトマンの『ストリーマーズ』やキューブリックの『フルメタル・ジャケット』が既定した類型とは異なり、クリス・カイル達がそこで晒された暴力性でなにか病んでいくような描写は一切ない。というより結婚に至るまで、彼は普通以上に温厚で善良で控えめな、温かい人物に見えてさえいる。だがそこで、映画の展開はいきなり冒頭の、スナイパーとなった彼が母親と少年に照準を定める場面に戻るのだ。
二つの戦場の映像のあいだに挟まれた妙に平和にさえ見えるシーンのなかで、リアルであからさまな暴力は、テレビ画面に映る大使館爆破事件と、9.11だけだ。そこと母親と子供に冷徹に照準を合わせる、義務だから合わせなければならない戦場のは隔たりはあまりに大きい。イーストウッドはことさら映画のレトリックを駆使することもなく、ただこのあまりに対極にあるかに見える光景をポンとつないでみせる、ただそれだけのシンプルさだからこそ、その映像の組み合わせの発散するものは痛烈だ。
まさの今、その時代に必要な映画を先取りして撮ってしまうイーストウッド
それ自体はまったく正当な虐げられた女たちの怒りが、男の暴力に支配された世界で復讐の形をとった時にあらぬ方向へ暴力の連鎖が増大していく『許されざる者』は、1992年の夏シーズン、同年5月にロサンゼルスで白人警官による黒人の暴行に触発された暴動が起った直後に公開された。それまで大勢ではアカデミー賞などとは無縁のアクション娯楽の俳優・監督としか思われていなかったイーストウッドが巨匠として認められたのは、『許されざる者』が映画産業で働く多くの人が住むロサンゼルスで圧倒的な支持を得たから、19世紀を忠実に再現した異色西部劇のはずがまさにその時の「今」のアメリカの問題に通底する映画になっていたからだ。このタイミングはまったくの偶然だったはずで、ロサンゼルス暴動が起きた時に『許されざる者』はすでに完成して公開待機中だったし、出演者以外に売りどころのない映画として最初は8月の夏休み公開作品でしかなかったのが、半年以上の異例のロングランを記録もし、気づけばアカデミー賞候補作に上がっていたのである。
2004年の『ミスティック・リバー』も復讐の暴走と暴力の連鎖をめぐる映画であり、偶然にも「対テロ戦争」が暴走したイラク戦争のまっただ中のアメリカで公開された。2008年の暮れにGM、フォード、クライスラーが経営危機に陥り、アメリカ自動車産業の凋落が明らかになったのとほぼ同時に、イーストウッドは自主製作で『グラントリノ』を発表、なんとこの低予算の、彼自身以外は無名俳優どころかほとんどが素人のキャストで固めた小品は、イーストウッド主演・監督作の興行記録を塗り替えてしまった。以上はすべて、映画が企画段階からすれば最低でも1〜2年は実現までにかかる現代において、まったく偶然だったはずだ。
インド洋大津波に巻き込まれたフランス人女性が生死の堺の向こうを見てしまう『ヒアアフター』でも、公開中に日本で東日本大震災が起ったのは、作り手が左右できることではない。日本での公開が過剰な配慮で震災直後に中止されてしまったのはまことに残念で、生死の堺の向こう側を見た女、死者を見てその声が聞こえてしまう男、一心同体の双児の兄を失った少年の三人の人生が交錯する『ヒアアフター』は、生死の堺を垣間みて親しい人々を失ってしまった多くの被災者に静かな共感を呼び癒す映画として機能したはず、震災後だからこそ見られるべきだった作品だし、また死者と死について物語ることの意味、そこから自分を取り戻すことを主題としたこの映画は、震災の痛みを抱えた人達にこそその本質が理解されたはずだ。
繰り返すが、これらはすべて偶然であって、イーストウッドの意図や力で起ったはずは無論ないのだが、今度はイラクとシリアのイスラム国をめぐる内戦がアメリカを始めとする国際社会の介入で激しさを増すタイミングで『アメリカン・スナイパー』が公開されたとなると、もうこれもまたイーストウッドの天才のひとつだと言わざるを得なくなるし、偶然といえば準備段階でエンディングが変更されることになったのも、実在のクリス・カイルが殺害されてしまった結果だ。今となってはこれ以外のラストシーンは考えられないが、それもまた客観的に言えば偶然の産物だった。イーストウッド自身はしかし、こう言うだけだろう「なるほど、しかし私はなにもやっていない、自分の仕事をしただけだ」と。
「一見なにもやっていない」、だからこそすべてを見せる演出
映画作家としてのクリント・イーストウッドは、それでなくとも自分の作品の「意図」について多くを語らない。『アメリカン・スナイパー』についても、さすがにこれは言わざるを得ないので「イラク戦争には最初から反対だった」と言っているくらいだ。そしてその実際の映画もまた、「一見なにもやっていない」演出が貫かれている。
いやむしろ、『アメリカン・スナイパー』はこれまでのイーストウッド映画以上に、一見「なにも特別なことはやっていない」かのように見える映画だ。この監督としてはいささか異例なことに映像アクションと音響の直接のショック効果を多用している一方で、この監督のトレードマークだった深い陰影と繊細で豊かな色彩のロマンチシズムと抒情性を湛えた映像や、近年の作品で際立つようななだらかで軽やかなキャメラ移動はあえて排除されている。しばしばイーストウッド自身が手掛ける、シンプルで心に響くメロディが印象的な音楽も、この作品ではわずかに、クリス・カイルと妻となるタヤとのシーンでかすかに流れるだけで、夫婦のシーンもいわば「ごく普通」に一見みえる。
戦場となるイラクの、激しい戦闘で半ば廃墟となった町は極端なまでに明るく、乾燥した大気を貫通する日光が色彩を洗い流すかのようにまばゆい。イーストウッドが陰影と暗黒の映像美を好んで来た理由は「見せ過ぎない方が、見えない部分を観客が想像出来るから」だった。とすると『アメリカン・スナイパー』は一見今までのイーストウッド映画の真逆の見た目さえ辞さなかったからこそ、却って「見えないこと」を際立たせるそのやり方の極北に到達している―まばゆい光にあふれたイラクの戦場でも、明るい銃後のアメリカでも、だからこそ「それだけ明るくても、やはり見えないもの」、直接目には見えない内奥に確かにある暗闇が、戦場でも銃後でも通奏低音としてこの映画の世界を蝕んでいるのだ。
クリス・カイルが四度渡航したイラクの戦場と、その戦闘のあいまあいまの銃後のアメリカ。映画の時間軸はその往復によって構成されているが、だからといってその双方が対比されているだけではないのも、この映画が決して目に見えたり言葉として聞こえることのうちの、言語的な情報に還元されるもので出来上がってはいないことの証しである。
戦場と銃後、戦争と平和は実はつながっている
さすがは現代の戦争と言うべきか、戦場にいるクリス・カイルはアメリカにいる妻と携帯電話で会話し、かくしてアメリカとイラクの距離、戦場と銃後にも関わらず、その双方は密接に、共時的・即時的につながっている。アメリカ本土には産婦人科の前で夫に妊娠の順調な経過を話す妻がいて、戦場では夫達の部隊が不意打ちの急襲を受ける。携帯電話は市街戦の路上に投げ捨てられ、見えない戦場の音だけが妻に襲いかかり、戦闘が見えている夫以上の恐怖を呼び起こす。
このシーンを堺に、映画は戦場のシーン以上に平和に見える銃後のシーンの方こそが不気味な不吉さに支配され、長男の出産という喜ばしいはずの場面が、ことさら特殊な撮り方も演出もないのに、なぜか痛切な暴力性を帯びる。クリス・カイルが戦場にいなくとも戦争に取り憑かれたままであるPTSDの映画化であるだけでなく、世界中に戦争を仕掛ける軍事的能力を持ち、恣意的にそれを実践しながらも、だからこそその本土は平和の此岸に頑なにあり続ける(そのために戦争を世界各地でやり続けなければならないと思い込んでいる)アメリカの、「家族と祖国を守る」ための戦争でアメリカ兵が痛めつけることになる相手、戦争と平和の彼岸にあるイラクの家族達の姿が、一見なんの特殊な演出もないのに、明確なパラレル関係に置かれているからでもある。
確かに『アメリカン・スナイパー』は、アメリカ兵の視点から一方的に見たイラク戦争であり、「イラクの聖戦アルカイーダ」のリーダーだったザルカウィの腹心・通称“虐殺者”と伝説のスナイパー「ムスタファ」が、台詞情報の上では “敵役”として登場するが、だからと言ってアラブ人の側の視点がない、不公平だ、イラク戦争を西部劇に見立てた勧善懲悪のアメリカ側自己正当化だという批判も、およそ的外れだ。“虐殺者”は電動ドリルを振り回す、その名の通りの残虐なテロリストではあるかも知れないが、彼らの手で一般のイラク人が殺される状況を作ってしまうのはこの映画のなかでは明確にクリス・カイル達アメリカ兵であり、自分たちを「正義」、敵を「野蛮」というのも、ただ彼らがそう言っている、自分達の正当化のためにそう思い込んでいるに過ぎない。
イラク人達の家に強引に踏み込んで拠点として利用したり、情報提供を拷問もどきの脅しで強要するアメリカ兵もまた暴虐で、その暴力性はむしろキャメラがあくまで彼らの側に留まっているからこそ、逆に際立って来るのがイーストウッド演出の、一見なにもやっていないようで実は繊細に一瞬ですべてを語り尽せてしまう巧みさだ。
アメリカ軍の視点から見るからこそ、際立つアラブ人の人間性
それどころか彼らアメリカ兵の視点からこの世界を見ている我々観客もまた、その暴虐と暴力性の側に置かれているとさえ言えるし、それに対しその眼差しの先にいる、一見ただの点景に過ぎないイラク人の家族達の方をこそ、遥かに人間的で、理解できる存在なのだとして見せているのもこの映画だ。それも殊更なにか特殊な演出もせず、いやむしろ表面上の演出ではあくまで主人公(=アメリカ側)の主観に立っていながら、その映像が映し出す現実によって演出の表面上の意味論を覆す芸当は、映画・映像のストーリーテリングを熟知した老練の巨匠の到達点を示している。
あるいは、こうも言うことが出来るだろう。物語上はクリス・カイルの「宿敵」であるスナイパーのムスタファを、彼自身も自分のアルター・エゴであるかのように思い込んでいるが、実際の映画のなかでは決してムスタファが彼の分身なのではなく、孫を守ろうとして守り切れないイラク人の族長や、怯える息子の前で人間の尊厳を貫くために(つまり息子に人の尊厳を教えるために)自宅に勝手に潜入して来た米兵をあえて犠牲祭の晩餐に招くイラク人の父ら、クリス達のせいで命を落とすことになるイラクの名もなき父たちこそが、主人公の分身であり鏡像なのだ。この複雑な構造の演出的離れ業を、イーストウッドはなんら特別な手法を用いることもなく、平然と、まったく自然に、観客の感受性イコール人間的知性を信頼し切って、やってのけている。
だからこそ映画は、米海軍の記録によれば160名を射殺したというクリス・カイルの戦場での「活躍」のうち、とくに子供に銃を向けた局面をシーンとして取り上げ続けるのでもあり、イーストウッドはそのことと、クリスの真の分身が作劇上の鏡像関係にあるムスタファではなくイラクの父たちであることを通して、映画自体があくまでアメリカ兵クリス・カイルの視点に徹しているのにも関わらず、きっちりとアラブ側の立場、つまりイラクの人々がなぜアメリカに反発しイラクの状況が泥沼化するのかを示してもいる。
「狼でも羊でもなく牧羊犬(野蛮な悪者から弱者を守る)」はずの、父的なつもりでいるクリス達は実際には人間を非人間に変容させる暴力の亡霊に取り憑かれ、父の役割を彼らアメリカ人よりも遥かにしっかりやり通す意思を持ち、絶望的な状況下でも真人間でまっとうな父であり続けようとするイラクの男たちを、アメリカ軍の作戦の結果命を落とすように仕向け、彼ら普通のイラク人をこそ敵に回しているのだ。クリスに強要されて“虐殺者”奇襲の囮にされた父は、イラクの聖戦アルカイーダ側に射殺される。ファルージャの町の人々が集まってその遺体を担いでアメリカ兵に抗議し、クリス達がその場から逃げ出す他なくなる時、イラクの人々は決して「テロリスト側」ではないが、それでも彼らは明らかにアメリカを敵視している−アメリカの悪意にではなく、その無自覚で無神経故の暴虐さにこそ怒って。
アメリカはなぜこうも嫌われ、ここまで憎まれているのか?
9.11でアメリカ人の多くが咄嗟に疑問を抱きながら、復讐の戦争に走る保守派もその戦争に反対するリベラル派もそろって問う勇気を持たなかったことがある―「我々はなぜこうも嫌われ、ここまで憎まれているのか?」。クリス・カイル自身がアルカイーダがアメリカの在外公館に仕掛けた爆弾テロ事件に触発されて軍に入隊しながら、なぜアメリカが攻撃されるのかは考えなかった。リベラル派がイラク戦争を軍需産業と石油産業の営利目的だと批判し、9.11についてブッシュ政権の陰謀論的関与さえ主張し、今ではイスラム国の資金的バックグラウンドに実はCIAがいるのではないかと疑いたがるのもまた、アラブ人やイスラム教徒側の主体的意思、裏返せばなぜ自分達アメリカ人がこうも憎まれるのかを問うことから逃げ続けて来ているからだ。左右の両派が共に「アメリカ」の内部に閉じこもった“賛否両論”を繰り広げる中、その「アメリカ側の視点」に徹底した構造を持ちながら、それを突き詰めた果てに超克した観点から、これまでの反戦映画の枠組みを超えた新たな反戦映画を提示したのが、クリント・イーストウッドなのだ。
いや戦争の体験そのものを忠実にスクリーン上に、そして映画館でそれを見る映画体験として再現する、その体験を通して口で言う反戦ではなくなにも語り得なくなる反戦の意志を示す究極の反戦映画として、イーストウッドは既に硫黄島の戦いを撮った『父親たちの星条旗』を、それもイラク戦争の真っ最中に発表していた。
この映画では敵である日本兵はほとんど見えず、戦争の現実は不意打ちの悪夢のように若いアメリカ兵達に襲い掛かっていた。二部作として日本兵の側から同じ戦いを描いた『硫黄島からの手紙』も製作されたが、その当事者である旧日本軍の、硫黄島の戦いの生き残り兵たちがむしろ好んでいたのが『父親たちの星条旗』、つまりアメリカ兵たちの体験だったのは興味深い。その理由は、『硫黄島からの手紙』に美化を感じた彼らが、アメリカ兵の体験の方を「アメリカ兵も僕らと同じことを体験していたんだ」と気づいたからだ。「戦争とは本当にああいうことなんだよ。だから絶対にやってはいけない」「勝ったアメリカ側だって、兵隊はああだったんだ。国は勝ったとしてもね」。戦争で国や集団は勝つこともあるとしても、戦場に巻き込まれた人間には、どちらの側にも勝利はない。そこには英雄もいない。
戦争映画であり、戦場PTSDの映画
『アメリカン・スナイパー』と同様、『父親たちの星条旗』は戦争映画であると同時に戦場PTSDについての映画でもあり、戦争PTSDは『グラントリノ』の裏のテーマでもあり、イーストウッド映画における暴力の伝染性と転移、究極の暴力が人間を人間外(たとえば、生きながら「死んで」いる、人でありながら幽霊)に押しやることのもっとも顕著な例とも言える。『父親たちの星条旗』の三人の若いアメリカ兵がそれぞれに生き残ったことの苦しみ、仲間の死を背負って生きざるを得なかったのに対し、『グラントリノ』と『アメリカン・スナイパー』の戦争PTSDは、人を(それも特に子供を)殺したことの罪をめぐるものだ。その点で『アメリカン・スナイパー』に中には違和感を覚える観客もいるであろう、この映画が時に居心地が悪いほどに痛切なのは、戦争PTSDを抱えながらクリス・カイルがあまりに「普通」で有り続けるかのように見えることだ。いや一回目の遠征から帰った時点で既に血圧が最高170、最低110という異常は既に体に現れているのに、四度の遠征を終えてもなお、クリス・カイルは「いや、僕はそういうタイプの人間じゃない」と、自分が苦しんでいることを認めようとせず、強迫観念的なまでの頑固さでそれを無自覚なままに抑え込んでいる。この転倒した「男らしさ」への執着自体、クリス・カイルはあまりにも「普通の男」なのだ。
クリス・カイルが戦場体験で明らかに異常になる、モンスター的な存在になっているか、『父親たちの星条旗』の看護兵や『グラントリノ』の主人公のように寡黙に、その体験をなにも語れぬままの特別な人間として生き延びるのであれば、『アメリカン・スナイパー』に既存の反戦映画を期待した観客にもまだ受け入れ易かったことだろう。だが彼があまりにも普通である、160人も殺している(しかもその犠牲者の多く、少なくとも映画がこと執拗に見せるターゲットは、子供である)というのに本質は善良な凡人のままであることに、戦争が人を悪魔にするストーリーを期待する戦争反対派はついていけない、クリス・カイルが「悪」になっていなければ納得できないのも、分からないではない。
だがその参加した戦争が明らかな誤りであり、彼自身が多くの殺人に手を染めたとしても、だからと言って人間としての彼を全否定するわけにはいかないジレンマを、イーストウッドの映画は決然と引き受けている。
現代の世界に必要な、戦争映画の新たな次元、新たな地平
クリス・カイルが殺害された時、未亡人となったタヤはすでに製作準備に入っていたイーストウッドたちに「この映画に間違いがあっては困る。彼の子供たちがどう父親のことを覚えていられるのか、それがこの映画にかかっているのだから」と告げたという。だが映画のなかの彼女が、夫が自覚を拒絶する異常を夫よりも敏感に見抜いていることからも察せられることとして、彼女は夫を美化することを望まなかっただろうし、現に映画はジレンマを引き受けるはするが、美化はせず、むしろ戦争映画の新たな次元に到達する足がかりとしている。
その新たな地平に到達しなければならないのは、『父親たちの星条旗』の第二次大戦はやその後のヴェトナム戦争と、『アメリカン・スナイパー』が描いたイラク戦争や今アメリカが継続中のイスラム国との戦争が、ある一点で、アメリカ社会の在り方において本質的に異なっているからでもある。『父親たちの星条旗』で明かされる第二次大戦史の知られざる一面は、硫黄島の擂鉢山に星条旗が掲げられる写真がなければアメリカはすでに厭戦気分で、国家財政上戦争の継続すら難しくなっていたことだ。言い換えれば、アメリカ本土が攻撃されることはなくとも、戦争は明らかにその本土に直接影響し、意識される体験だった。ヴェトナム戦争でも本土は戦争を意識し続け、その厭戦気分が大規模な反戦運動と結びつき、結局は戦争を終わらせた。この二つの戦争で、銃後の本土のアメリカ人たちも自分は行かない戦場のことをなんらかの形で考え続けざるを得なかったのだ。
それに対してイラク戦争では、本土の人たちは自分たちの国が戦争をやっている現実を忘れることが簡単だったし、今のイスラム国との戦争ではもっと簡単になっている。『アメリカン・スナイパー』で戦場のクリス・カイルと本土のタヤは携帯電話でつながっている。だがその即時的な、声も音も聞こえるつながりが可能にも関わらず、電話越しに聞こえる戦闘にタヤがパニックになっても、彼女の直接の物理的周囲はまったく気にも留めない。
現代のイスラム国との戦争ではもっと極端に、インターネットを駆使したメディア戦争でもあるこの戦争は、リアルタイムに銃後の日常生活とつながっているはずだ。情報通信や交通手段の発達で、戦場と銃後の隔たりははるかに減り、ほとんど地続きになっているはずだ。だがしょせんは消費される情報の流れでしかないそのつながりを、銃後の人間は恣意的にシャットアウトできる、見ないことを選択でき、現に接点はすぐそばにあるのに、平気で忘れられる。見ようとしない限り、それは忘れることが出来る。タヤは妻だから電話を聞き続けてしまうが、そうでなければ電話を切るだけで、ついさっきまでその音を聞いていた戦場のことを考えないで済む。
今のアメリカでは、アメリカが外の世界でやっている戦争が実はアメリカの内側を蝕んでいることすら、恣意的に無視も可能なのだ。戦争PTSDに苦しむ帰還兵を無視することも、今のアメリカ社会なら出来るのだ。『アメリカン・スナイパー』はそんな現代の戦争映画であり、だからクリス・カイルは自分がどれだけ暴力に精神を侵され、苦しんでいようとも、あたかも普通であることを選択できる…いや、そんなアメリカ社会の一員として「いや、僕はそういうタイプの人間じゃない」、大丈夫だ、と自分にも言い聞かせ続けなければならなかったのだろう。
だからこそ、この戦争映画で本当に怖いのは、戦場のイラクよりも銃後のアメリカのシーンなのだ。これだけ激しい戦争を戦っているのに、クリスが帰国するアメリカは驚くほど平和だ。クリスが帰国すること自体に耐えられなくなるほどに。そして一見平和でなにごとも起こってないように見えるからこそ、このアメリカは痛切で、恐ろしい。
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