マスメディアが報じない安倍「米国」演説のあまりに貧相で空疎な内容 by 藤原敏史・監督

安倍晋三首相は、不思議な運にだけは妙に恵まれた総理大臣である。今年の一月の中東歴訪では自らの不用意な演説の結果、イスラム国に拘束されていた邦人が突然日本政府相手の脅迫の人質として使われてしまった。元からなにも考えていなかったし中近東情勢について驚くほど無知だっただけに、安倍内閣は無策でなにも出来ないまま、政府と日本のメディアがイスラム国にさんざん弄ばれた挙げ句、2人の邦人の殺害がネットで公開された。内閣総辞職ものの事態に陥ったはずが、逆にそれまで明らかに冷却化していた日米関係が「テロとの戦争」での「テロ被害国の日本への連帯」ということで好転に向かって来ている。

とはいうものの、安倍とその周囲が国内で盛んに喧伝したがっている歴史修正主義的な主張が東アジアの安定を揺るがせ、オバマ政権とアメリカのメディアの不信を買っている事態は、一向に変わっていない。そこで安倍が今年の戦後70年の機会に、50周年の際の村山談話、60周年の小泉談話の戦争侵略責任の反省と謝罪をなんとか書き換えたいと言い出しているものだから、アメリカ政府も神経を尖らせて来た。

7月ごろに発表されるというこの談話も睨んで、4月下旬のアジア・アフリカ会議とその場での日中首脳会談でも、引き続いての今回の訪米でも、安倍が過去の戦争についてどう発言するのかばかりが注目され、アメリカではリベラル系のニューヨーク・タイムズから保守系のワシントン・ポストまでがそろって安倍を牽制する論調でまとまっていた。

日本メディアはオバマの安倍への配慮を強調したが…

だいたい安倍がアジア・アフリカ会議に出席したのも、日中関係を悪化させたままではアメリカが許してくれないと安倍政権が考え、日中首脳会談を行い安倍と習近平のツーショットをテレビに流すために過ぎなかったというのが実態に近い。国連安保理の常任理事国入りを目指し、「世界の中心で輝く日本」を唱えるわりには、アジア・アフリカ会議に出席してもかつての第三世界諸国の支持を取り付けることになぞまるで関心もなく、米中という超大国にしか目が向いていない。

さてこの安倍首相が念願し続けて来た今回の訪米だが、昨年オバマ大統領が国賓として来日した答礼として公賓(国賓に準ずる待遇だが、首相は国家元首ではないので国賓にはならない)扱いで、日本の首相としては初めての上下院合同会議での議会演説まで予定されていた(米メディアでは「日本の歴代首相でもっともふさわしくない」「共和党を金で買った」という報道まであった)ものの、ホワイトハウスの歓迎行事は公式晩餐とほぼ形だけの首脳会談のみ。あとは議会演説があるだけで、それ以外はワシントンでの公式行事がなにもなく、大統領ともほとんど会わない異例の冷遇となるのでは、とも噂された。

公賓という格式なのに真面目に相手にされずえらくヒマな訪米日程になってしまって、そこを米メディアに書き立てられようなものなら、安倍は大恥をかき、政権にとってピンチになる。

現に渡米の初日の晩は大統領が私的な夕食に招くのが普通なのに、最初の訪問地はボストン、ホストはケリー国務長官でその私邸で夕食会、ケネディ図書館を見学したのでJFKの娘が直々の案内…とはいえ元から随行している駐日大使でしかない。満を持して乗り込んだはずのワシントンDCではホワイトハウスでの公式晩餐会も異例の地味さで、報道でそれなりに取り上げた数少ない米メディアでは、むしろタブロイド紙的なオバマへの揶揄の論調が目立った。一応、話題はある。ホワイトハウス公式晩餐で史上初のお箸の登場だったし、『スター・トレック』でおなじみの俳優ジョージ・タケイが同性婚の夫と共に列席したことは日本のワイドショーでもっと騒いで欲しかった。

この訪米中に第二次大戦における日本の行いをどう安倍が評価するのか、オバマ政権では事前に大統領副補佐官の異例の電話記者会見をやらせて安倍を牽制していた。安倍が頼みにしているつもりの共和党では、そもそも敗戦国である日本がそんな戦争の自己正当化を考えているなんて知らないほどアジアに関心が向いていない議員も多いだろうが、それでも同党のもっとも有力な次期大統領候補のひとりマルコ・ルビオ上院議員から、安倍が日本とアメリカが戦った戦争を正当化しかねないことに対する、露骨な要請というか警告が発せられていた。

ほとんど注目されなかった不名誉が逆に幸運になる安倍政権の不思議

だが戦争の過去を議会演説でどう語るかに米メディアも注目し、ことと次第によっては議会からも激しい反発が出てもおかしくない…となるはずが、議会演説の前日に行われた首脳会談後の合同記者会見でも、当然予想されていた安倍の歴史認識に対する厳しい質問も、ほとんど出なかった。

なんのことはない、結果としてこの安倍の訪問は、アメリカではほとんど注目されずに済んでしまった。

安倍とオバマの合同記者会見で、質問はひたすらオバマ大統領に集中した。日本の首脳が招かれながら、会見でもっとも重要な話題はボルティモアで起こった警察官による黒人殺害事件と、その結果起こっている暴動の事態についてだった。オバマが「首相閣下には大変申し訳ないが、これは大事なイシューなので」と安倍に謝ったことが「安倍への配慮」として日本のメディアでは報じられたが、なにも特別な配慮ではなく、本来なら賓客である外国首脳に対してあまりに失礼な異例の状況になってしまい、礼儀として謝って当然だったに過ぎない。

普通なら「恥をかかされた」と日本のメディアが批判し反米感情すら高まってもおかしくない。それほどに、はっきり言えばアメリカのメディアも、オバマ大統領自身も「安倍どころではない」、そんな状況だった。かくして米国内の不測の重大事態で日本首相の訪問が注目されることもなく、本来なら不名誉になりかねない話が、注目度が低いので批判も飛びにくいため、安倍に明らかに有利に働いたのだから、いやまことに、なんとも奇妙な強運にだけは恵まれ続けるのがこの政権なのだなあと、感心してしまう。

アメリカからは戦争を謝罪したようにも見える二枚舌

英語で行われた議会演説で安倍は戦争の反省について、自分はワシントンの戦没者慰霊碑の前でdeep repentanceを胸にしばし黙祷し、日本人は戦後にdeep remorseの感情を抱いて歩み始めた、とのみ言及した。なんとも持って回った言い方だが、外務省の出した翻訳ではdeep repentanceは「深い悔恨」、deep remorseは「痛切な反省」になっているものの、前者は「深い贖罪の気持ち」、後者は「深い悔恨」の方が訳として正確で、元々のニュアンスが謝罪を含意すると同時に、その前に安倍が第二次大戦での米軍の戦死者に哀悼を表明したこともあり、議会で演説を聴いているか、そのあいだじゅうトランスクリプトを目で追っているだけでは、アメリカ側からみればなんとなく謝ったように感じられたはずだ。

もっともその「深い贖罪」で黙祷する前に、安倍はHistory is harsh, what is done cannot be undone とわけがわからないことを言っている。外務省訳は「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」だが、直訳は「歴史は厳しい、起こってしまったことは元に戻せません」と妙に他人事の無責任さに聴こえる。そしてよく読めば日本が国際法違犯の奇襲攻撃で始めた戦争だったことも、日本のアジア諸国への進出侵略にアメリカが厳しい態度を示した結果であることにもなんの言及もないのだが、太平洋戦争の激戦地としてまず「真珠湾」が挙げられているので、注意して聞かないとその国際法違犯の奇襲を謝罪したかのような印象は与えるだろう。

いやもちろん、よく読めばいったいなにを「反省」「悔恨」「贖罪」したのか分からない曖昧さは露骨だし、国際的な話題になっていて米政府も議会も非難している慰安婦問題に至っては、その当事者女性が傍聴席にいたというのに完全に無視された。

たまたまこの日、下院外交委員長である共和党エド・ロイス議員は親族の葬儀で欠席しその場に居なかったので、外国賓客を歓迎する儀礼の場の雰囲気にのまれることがなかったせいもあるのか、この安倍の過去に対する無責任な態度に、「東アジア諸国との関係を悪くしている過去の問題を適切に扱う機会を活用せず、大いに失望した」と厳しい批判の声明を発表している。

だが演説を聞いていた傍聴者や議員なら、その前に延々と安倍が米軍の戦死者を称えてdeep repentanceと言った上に(つまり謝っているような印象は与える)、硫黄島戦の米側に参戦したことがあった退役海兵隊中将と、日本側司令官・栗林忠道の孫である日本の国会議員が並んで座っていたパフォーマンスの感傷主義にお約束通りに拍手喝采、そこで安倍のdeep remorseという言葉が続くことで、なんとかうまく誤摩化すことが出来ている。そして日本のメディアは演説終了後に一生懸命に上院と下院の議員のお褒めの言葉を集めようと取材に走り、そもそも議会演説は外国賓客の歓迎の場、当然ながら形だけの賞賛しか言うはずもない(立場上、言えない)のに、そんな言葉ばかりが日本の報道に流れた。

安倍の英語演説を、実は誰も聞いていなかったかも知れない

いやそもそも、安倍の議会演説に列席した人たちがそこまで注意して聞いていたかどうか…というよりあの演説をちゃんと聞けたかどうかが、かなり怪しい。深夜に生中継されたテレビを見た人たちからは安倍の英語があまりに下手であることに批判というよりただ呆れた声が上ったが、確かにあれでは真面目に聞く気力が続かないだろう。

英語コンプレックスが強い日本では「発音が悪い」という批判が出がちだが、これは少し違う。もともと米国は多民族国家、英語に外国語訛りがあることは許容されるので、安倍の発音がカタカナ朗読にしか聴こえないのは、そんなに重要な問題ではない。だが英語という言語の特性として、イントネーションや単語のどこを区切りどこで流れを作るのかが、意味とニュアンスを明確化する上で重要なのに、安倍の英語演説はこれがまったくなっていなかった。これではあの演説の場にいた人たちがどれだけあの演説を聞いていたのかが相当に疑わしい。妙に単語を一語一語区切った言い方で流れも抑揚がまるでなく、センテンスの切れ目すら分かりにくいのだから意味を追うのも難しい。抑揚とリズムがなく文のどこをどう強調しているのか分からない、まるで心のこもった言葉には聴こえないのでは、英語という言語でのコミュニケーションでは致命的で、聴衆の関心を維持出来ない(ちなみにバラク・オバマは、このタイミングのセンスとリズム感がずば抜けている)。

同じインド=ヨーロッパ語族の言語でも、たとえばフランス語なら規則通りの抑揚でしゃべればすんなり聴こえるのが、英語はそこがぜんぜん違うのだ。この特性があるからこそ、書かれた台詞だけでだいたい解釈が決まってしまうモリエールやマリヴォーではなく、多様な解釈の幅が演ずる側に任されているシェイクスピアの英語演劇が、翻訳上演で世界の舞台を席巻し続けているわけでもある。英語はそれだけパフォーマンスの言語なのに、安倍の演説のようにイントネーションとリズムで表現されるニュアンスが抜け落ちては、聞く側は集中力がそがれ、感動もなにも呼ばない。

いっそ日本語でやればよかった。そもそもこうした外交の場では、自国の言語で堂々と話すことがむしろその国の名誉とみなされるのも外交の慣例で、たとえば吉田茂は実はアメリカ人以上に英語が出来たはずが、サンフランシスコ講和条約の受諾演説をあえて日本語で行い、それも原稿は墨書毛筆の奉書だった、というのも日本外交史に有名なエピソードだ(白州次郎の発案だったと言われる)。

だが安倍の場合、逆にあまり集中して聞かれても困るのだから、ほとんど出来ない英語で演説することが、かえって好都合だった。

これも安倍という政治家の不思議なところだ。本来なら演説がうまいことは、ことこのような場では政治指導者として必須の条件のはずが、今回の訪米での演説は彼があまりにヘタクソであったが故に、安倍自身の政権維持にとってむしろ大きな成功になったのだから、この政権はほんとうにわけが分からない。

演説自体が内容も文体もあまりにお粗末だった

メディアの注目はどうしても、これまでの安倍の言動からして、前半の要に当る戦争の反省への言及に集まってしまうが、安倍の米議会演説は最初から問題だらけだ。外務省の出した日本語の翻訳を見るといちおうまともな大人の言葉に読めるが、まず英語の原文は最初から、言葉遣いがあまりに子供っぽくて呆れてしまう。親しみを覚える演出でも狙ったのかもしれないが、日本の英語教育でいえば中学生の英作文レベルの語彙や言い回ししかなく、およそ一国の政治指導者にふさわしい教養も品性も感じられない。

上院のフィリバスター(日本の議会でいえば牛歩戦術に当る、議場を独占するマラソン演説)の慣例にひっかけた最初のジョークには、アメリカの一部報道では「こんな下らないジョークでも笑いが出た」と議員たちを皮肉った論調さえ出ているが、原文は I have lots of things to tell you. But I am here with no ability, nor the intention, ….to filibuster、普通に訳せば「いっぱい話したいことはあります。でも今の僕には、フィリバスターをやる能力もないし、その気もないんです」となる、この「いっぱいある」らしい「話したいこと」の中身がまた問題あり過ぎであることは後で触れるとして、「フィリバスターはやりませんからご心配なく」なら普通にジョークに聴こえる(あまりおもしろくはないにせよ)が、「ability」つまり能力がないとはどういうことだ?

フィリバスターは自由な言論を最重視する上院の慣例で、発言中の議員は本人が了承して他の議員に発言権を譲らない限り、その発言を制止されることがない、だからなんでもいいから喋り続ける限りは、議場を独占できる。一般になじみ深いのがアメリカ映画を代表する名作のひとつ『スミス都に行く』で、たまたま議員になってしまった普通の純朴な青年である主人公は、上院で影の権力を握る汚職と不正を暴くために24時間マラソン演説に挑む。つまり「能力がない」、素人でもできるのがフィリバスターだ。そこで彼が時間稼ぎで読み上げ始めるのは独立宣言であり、権利の章典であり、そして合衆国憲法と、アメリカの自由と民主主義を担保するもっとも基本的な文書だ。もちろん「よく読んでみたらこんないいことが書いてあるんだ」と軽口を交えながら民主主義の価値を自然に歌い上げ、この場面をハリウッド史屈指の名シーンに仕立てたジェームズ・スチュアートには俳優として傑出した能力があり、安倍氏にそれはない、とは言えるのだろうが、フィリバスターをやることそれ自体に必要な「能力」は、ただひたすら喋り続ける体力だけだ。なのに「そんなつもりはありませんからご心配なく」ならいいが、「能力がない」とわざわざ卑屈になってしまう、そこに安倍のこの演説の本質が現れている。

上院なので駐日大使を務めた上院議員の名前を列挙して、その日米関係への貢献を感謝するのは、これは外交辞令の慣例に準じているのだから良しとしよう。慣例で、ここでまず一回目のスタンディング・オベーションがある、というのも含めて完全にただの決まりごとなのだし、一般人には下らないことでも、文句を言うようなものでもない…とも言えないのは、安倍は「On behalf of the Japanese people, thank you so very much for sending us such shining champions of democracy」などと言い出してしまうのだ。訳せば「日本国民を代表して、こんなにキラキラした民主主義のチャンピオンを僕たちに送ってくれて、とってもどうもありがとう」である。外務省翻訳では「感謝致します」で言葉遣いはマシだとはいえ、感謝したのは両国の友好関係への貢献つまり対等な立場ではなく、こんな素晴らしいチャンピオンに日本は民主主義を教えてもらったから感謝しますとは、いったいどういうことなのだろう?

安倍は続けて自らのアメリカ初体験として続けてUSC(南カリフォルニア大学)への留学を挙げた。以前、政治科学学部に留学と称していたのが実はサマースクールの語学講習で正規の学籍すらなかった経歴詐称が問題になったのはこの際おいておくとして、出て来た話はホームステイ先のおばさんが未亡人で、夫がゲイリー・クーパー似と言っていたという他愛もなさ過ぎる話。まあジョークを交えるのは悪いことではないが、安倍の話し方(というか途切れ途切れの棒読みの仕方)では、本人がジョークのつもりで言っているのかも疑わしい。で、ジョークの後に来る本題が、なんとイタリア系のこのおばさんのイタ飯が「out of the world」とは大げさ過ぎて、オバマが子供の頃の日本観光で鎌倉の大仏よりも抹茶アイスクリームに興味が、と言えば子供なんだから微笑ましかったのが、安倍の場合は当時すでに大学生なんだからそれでは困る。しかもこのおばさんが親切で誰とでも仲良かったからアメリカがdiverse、多様で、だからアメリカは「awesomeな国」だと思ったというのだから、なんたる幼稚さか?呆れる他はない。

いや幼稚さ以上に問題なのは、安倍がここでawesomeと称えたアメリカの多様性が、おばさんはマイノリティのイタリア系でも親切で謙虚で料理がうまかったから「受け入れられた」で多様性万歳という安倍の言い方では、むしろレイシズムとコロニアリズムの上下関係が前提にしかなっていない。だがアメリカの多様性とは人種民族宗教出自に関わらず皆が平等の権利を持ち、自由に自分の能力を発揮して生きられることのはずだ。無論その理想がアメリカの現実であったことは歴史上一度もなく、安倍がのんきにホームステイ先のおばさんのイタ飯を褒めているキャピトル・ヒルの外の世界では、今も警察の人種差別があり、差別抑圧される側の抵抗権の行使で、ボルティモアで激しい暴力まで引き起こしている現実があり、だからこそアメリカが本来掲げた理想の素晴らしさを安倍がそこで歌い上げ、日本もまた同じ理想を共有している、共に努力していこうとでも言えば筋は通ったはずが、これではアメリカの現実に目を閉ざして盲目の崇拝に陥り、必死で媚を売ることにしかなっていない。それでもアメリカが褒められれば拍手しなければいけないのが、議会での外国賓客の演説だ。

安倍首相の歴史歪曲癖は戦争だけではないらしい

安倍は父安倍晋太郎元外務大臣の秘書になる前のサラリーマン時代にニューヨークに赴任したことを語ったのだが、その体験で学んだのは「年齢や地位に囚われないアメリカの実力主義は素晴らしい」だったそうだ。いや外務省訳では「実力主義」だが原文はbased on merits、これでは利害優先と受け取られかねずむしろ「功利主義」、褒めていることにならない。そのアメリカ文化に安倍は「intoxicated」つまりラリっちゃって帰国し、議員になったら「安倍、君は生意気だ」と言われた、と笑いをとろうとする。いや岸の孫、安倍晋太郎外務大臣の息子で秘書が「生意気だ」と言われたのは「親の威光でいい気になるな」という党の先輩たちの親身な苦言だろうし、長らく父の秘書で議員になったのはだいぶ後のはずだが、適当に話を作ってアメリカは素晴らしい、日本は古くて駄目です、という馬鹿げた卑下は、その日本の総理大臣のやることではない。

後段ではTPPを推奨する逸話として、安倍は議員になってまもなく1994年のGATT交渉の経験を語り、その時にはlike a ball of fireつまり「火の玉のように」若気の至りで日本の農業市場の開放に反対したそうだ。こうも吹聴するほどの活躍があったとはとんと知らなかったが、それはともかくそこでアメリカの市場開放圧力に抵抗した後の20年間で日本の農業が衰退したと語りながら、挙げた例は農業従事者の平均年齢が66歳であることだけだ。いやちょっと待って欲しい、日本の農業が目に見えて凋落したのはむしろそのGATT交渉のはるか以前、高度成長と反比例してのはずだが、これではアメリカの自由主義経済に抵抗したのが誤りでその結果日本農業が衰退したかのように言っていることになる。現実には農業従事者の高齢化は農村でも農業だけでは生活が成り立たなくなったからだし、これではまったく歴史に反する。Rock-solid regulations という「岩盤規制」の直訳はたぶん意味は通じるだろうが、別に農業に関する規制が農業衰退の理由でもないし、そこまでしてアメリカの方針に逆らったことが誤りで、その罰でも下ったかのように日本農業が衰退したと言いたがる意味が分からない。

安倍、ローマ字表記でAbeは、英語発音なら「エイブ」と読まれがちだ。その発音間違いは気にしない、細かいところでケチなことは言わない、というのはジョークとしてなら悪い演説ではないが、気にしない理由が振るっている。「That’s because, Ladies and Gentlemen」と安倍は大仰に続け、そこで「エイブ Abe」つまりエイブラハム Abraham の略称でひっかけたわけでもあるまいが、いきなりエイブラハム・リンカーン大統領の南北戦争中の有名なゲディスバーグ演説を持ち出し、日本が近代化以降、常にそれを民主主義のお手本として崇めて来たから、自分は名前の発音間違いも気にしないのだ、と続けてしまうのだから、この演説を執筆した官僚も含めて歴史認識の出鱈目さ、歴史捏造癖も甚だしい。どうもこの人たちは明治憲法の存在すら否定するほどに日本の歴史への尊重が欠如しているらしい。

安倍の祖父、岸信介は1957年に米下院で議会演説をやっている。孫の彼はその議会演説の引用からこの自分の演説を始め、祖父があたかも生涯、アメリカの民主主義を擁護して来たかのように語っているのだが、岸が「人民の、人民による、人民のための政治」をお手本にして満州国の経済を支配し戦前戦時中の日本の商工大臣(兼軍需省次官特命大臣)内務大臣を務めていれば、A級戦犯として訴追される候補になることなぞ、なかったはずだ。

以前に息子の方のブッシュ大統領が日本の国賓として国会で演説した際、日米関係を150年間の友情と語って「太平洋戦争はどうしたんだ?」と失笑を買ったことがあるが、戦勝国だけに敗戦国としての日本に配慮したもの言いだったとまだ理解できた。だが安倍の演説はもっと凄かった。For Japan, our encounter with America was also our encounter with democracy. And that was more than 150 years ago, giving us a mature history together、日本にとってアメリカとの出会いは民主主義との出会いであり、それから150年に渡って成熟した歴史を共に歩んで来たのだそうだ。

だがその安倍のいう民主主義とはなんだろう?リンカーンとゲディスバーグ演説を挙げながら肝心の「人民の、人民による、人民のための政治」は言わなかったのはともかく、リンカーンが The son of a farmer-carpenter 大工/農民の息子で、なのに大統領になれた、such a country existed woke up the Japanese of the late 19th century to democracy そんな国があり得ることに19世紀後半の日本が民主主義に目覚めたって、その300年前に農民の息子・木下藤吉郎が天下人・太閤豊臣秀吉になってるじゃないか。

一方でリンカーンが奴隷解放を決断し人種宗教や肌の色に寄らない人間の平等を憲法修正条項13条に盛り込んだことには、なにも触れない。これではアメリカの民主主義礼賛にすらなってない、子供じみたアメリカン・ドリーム礼賛だし、そもそも明治時代に自由民権運動が明治政府と厳しく対立したことも、大正デモクラシーも、別にアメリカだけの影響で民主主義が日本に定着したわけではまったくない。少なくともイギリスもフランスも同程度以上の影響を与えたはずだし(むしろ日本の開国~明治維新当時、アメリカはまだ半ば後進国だった)、そのなかで日本独自の進展を当然遂げているのに、あたかも「ひたすらアメリカに民主主義を教えてもらったからこそ、今の日本がある」と言わんばかりである。

日本のメディアは安倍が拍手喝采を浴びたと報じるが

あまりにバカバカしくなるのでこれ以上この議会演説の文面を云々のはやめるが、日本の報道は安倍のこの演説が何度もの起立した拍手喝采、スタンディング・オベーションで歓迎されたかのように報じた。果たしてこんな下らない、出鱈目な演説が評価されたのだろうか?

種を明かせば簡単な話で、議会演説は外国からの国賓・公賓の歓迎行事だ。日本人はアメリカ人をただフランクで親しみ易いと誤解しているが、アメリカは多民族国家だからこそ、礼儀作法や儀礼にはむしろ徹底してこだわり、マナーの重視で異なる者どうしの誤解や無理解による軋轢や対立を回避する文化を持っている。フランクな笑顔の挨拶だって、アメリカ人の社会維持のためのマナーだし、いかにも心からの言葉のようにお世辞を言うのもアメリカ流だ。こと議会と外交行事には、さらに国際的にもさまざまな慣例の儀礼が予め決まっているし、アメリカこそその形式をもっとも厳格に守る国のひとつだ。国賓・公賓は形式だけでも徹底して歓迎し、非礼になりそうなことは基本、絶対に避ける。議会演説でスタンディング・オベーションがあるのもそうした儀礼に過ぎず、アメリカに配慮した有利な話や、アメリカないしアメリカ国民が褒められる発言があれば、自動的に全議場で立ち上がって拍手するものなのだ。

演説の翌日には、ちょっと意地悪な写真がアメリカのメディアに掲載されて話題になった。演壇の後ろから安倍の肩越しに、その演説原稿が映っている。妙に大きな文字で1ページに1センテンスも入り切らず、赤鉛筆などで読み方を示すと思われる書き込みがあり、ところどころ日本語で「(顔を上げ拍手を促す)」とまで指示が入っている。

拍手なんて、アメリカやアメリカの著名人を褒めれば自動的にやるのだから、演説を読んでいればそのタイミングは自分でわかりそうなものだが、この首相のことだから、自分がなにを言っているのかもよく分からないまま喋ることが多いのは日本語での演説だってしばしばあり、まして今回は英語だ。いずれにせよ「スタンディング・オベーションが○○回」と騒いだところで、要は「(顔を上げ拍手を促す)」の回数そのまま、最初からただの儀礼でなんの意味もない。議場を出た議員から日本のメディアがとったコメントも報道されたが、そんなものこの場であれば褒めるのは、やはり当たり前の礼儀作法でしかない。

本当のところ安倍の演説は歓迎されたのか?

上院議長でもあるバイデン副大統領が演説を褒めるのは立場上当たり前、ただの礼儀で、これでもってオバマ政権がこれまでの安倍政権に対する厳しい態度を変えるのかどうかを計ることは出来ない。これまでオバマ政権と良好な関係が築けなかった安倍は政権では野党とはいえ議会では過半を占める共和党系のネオコンに取り入って来たつもりのはずだが、その下院多数派の共和党で外交委員長を務めるエド・ロイス議員が非難声明を出しているのは先述の通りだし、民主党の外交委員会幹事エリオット・エンゲル議員はさらに厳しく「安倍首相が慰安婦被害者であるイ・ヨンス氏が本会議場の傍聴席で演説を見守っているにもかかわらず、直接的に謝罪をしなかった」と、安倍の人間性すら疑わっていることを隠さない声明を出した。そのイ・ヨンス氏に同行していた日系人のマイク・ホンダ議員も当然、厳しい批判の声を上げている。友好国の外国賓客の演説にここまで言うこと自体が、ことアメリカでは異例だ。

安倍が目指す日本軍国主義の正当化が認められたわけではまったくない

そもそも、誤解されては困るのだが、戦争責任の問題をめぐる安倍演説への批判は「安倍がちゃんと謝っていない」とみなしているからだし、評価というかとりあえず批判しない側はdeep repentance や deep remorse、それにアメリカの戦没者への哀悼をもって「謝罪した」と受け取ったか、「この程度でよいだろう」、下手すると元慰安婦の女性が傍聴していたのに安倍が無視したことに気づいていない程度のこと、あるいは立場上、礼儀として褒めているだけであり、慰安婦問題をはじめ日本の戦争犯罪・人道犯罪について安倍やその周囲が日本国内で言っている軍国主義や侵略の自己正当化が認められたわけではまったくない。礼儀にすぎないスタンディング・オベーションが何度あろうが、そのアメリカ合衆国議会が慰安婦問題について非難決議を出していることもなにも変わらないのだ。

とは言うものの、安倍の演説が戦争責任の問題について曖昧であることを巡るアメリカの批判が、東アジアおよび東南アジアの日本の周辺諸国や慰安婦被害の当事者に対する不誠実な態度に対するものに留まっているのも、いささか意外ではあった。安倍が真珠湾という戦地の名前は挙げながらその日本の開戦自体が国際法上は違法となる奇襲だったこと、そもそもアメリカ相手に戦争を仕掛けたこと、あるいは米兵捕虜の虐待、戦争末期には玉砕覚悟の突撃や特攻隊など、日本帝国陸海軍の異常で非倫理的な行動と軍国主義の非人道性には一切触れなかったことには、特段の非難は出ていない。それだけアメリカが大国の余裕で自国民の被害には敢えてこだわらなかったとも言えるし、一方で安倍の演説で挙げられた名前から、別の解釈も可能だ。その名とは故ダニエル・イノウエ上院議員、日系人だということで安倍が挙げた名だが、その逝去を最後に、第二次大戦を実際に知っている世代は、アメリカ議会にはもういない。太平洋戦争もまた、日米に双方とって完全に過去になったのかも知れない。ならば日本の軍国主義もまた、今後ひたすら歴史的過去だけであり続けて欲しいのだが。

安倍訪米の本当の目的はなんだったのか?

それにしても不思議な首相訪米だった。

日本の政治的には、安倍が戦争責任について謝ったようにも見えるが謝っているわけでもない曖昧な二枚舌の不誠実で逃げたこと以上に問題なのが、TPPと安全保障について壮大な空約束をやって来てしまったことだ。日米のよりseamlessな軍事的連携は議会演説中にも言及がある、その新ガイドラインは、日本の法律を改正する手続きがまだ国会で始まってすらいない。なのに安倍がこの夏には実現させると米国の議会相手に約束してしまったことに、野党だけでなく自民党内からさえ反発が出ている。いや国会の法改正どころか、新ガイドラインの元となるのは安倍内閣が閣議決定した憲法9条の新解釈だが、「解釈改憲」と揶揄されるこの中身について内閣法制局が妥当な解釈の法論理を出さなければならないはずだし(無理だと思うが)、それがなければ最高裁の違憲立法審査権が発動される可能性も否定できない。オバマ政権が推進するTPPは米国内でも議会多数派の共和党でむしろ反対が少なくないし、日本でも自民党内ですら異論がくすぶっている(というか、党の方針とは異なりTPP反対を公約して当選した議員もいる)。つまりどちらも空約束だし、「アメリカと約束した」と安倍政権が言い張って国会審議を強行する気なら、それ自体が違憲の疑いが濃厚だ。

つまりは安倍訪米にあたっての最大の「手みやげ」ふたつ、集団的自衛権に基づきアメリが自国の戦争に日本を参加させられるようになる新しい安全保障の枠組みも、TPPも、アメリカ側でもその実現性を多いに疑い、空約束を繰り返した安倍を信頼出来ないと思っていても不思議ではないし、あるいは日本の民主主義をアメリカがまったくないがしろに出来ると思っているのかも知れない。どっちにしろ、日本にとっておよそいいことでも、国益にかなうことでもない。だが一方で、今回の安倍訪米は公賓の格式なのだし、どちらも表向きはアメリカの現政権にとって非常に有益な話にはなるので、ホワイトハウスは歓迎以外の立場は今のところ表明しようがない。

さらに奇妙なことが起こっている。まず鳩山政権以来日米の懸案ということになっている、沖縄の普天間米海兵隊基地の名護市・辺野古への移転問題だが、日本の報道は首脳会談で「唯一の解決策」として合意したとのみ報じているが、安倍との合同記者会見でオバマが海兵隊のグアム移転にも言及し、辺野古新基地の規模や、場合によっては新基地の存立そのものについてすら含みを残したことを、わざと無視している。NHKではオバマが英語で言ったことと日本語字幕が異なっていたほどだが、この字幕は外務省がブリーフィングした日本語の説明そのままだったそうだ。

またTPPについても、新ガイドラインの集団的自衛権・集団安全保障の枠組みについても、会見でオバマは、それが中国に対抗する性質を持ちかねない政策であることの言及を慎重に避けていたのが、安倍の方はワシントンからカリフォルニア州に移動した後の講演で、中国に対抗するものだと明言してしまった。せっかくうまく行ったか、少なくともそう見せかけるのに双方が成功した合意をわざわざ覆し、オバマ政権の不信を再び買いかねないことを、安倍はあえてやってしまっている。その意図はなんなのか?

訪米そのものが日本世論相手のパフォーマンス

あらためて考えてみるに、訪米中の安倍の言動には、外交としてあまりにおかしなことが多い。

議会演説を英語でやる必要もなかったのに、日本時間では深夜とはいえ生中継で見た日本人にさえ安倍の英語があまりにも無惨であることは隠しようもなく、ましてアメリカでは恥をかいただけだし、演説の内容に至っては無惨なまでの媚米である以外に、読むべきところとてない。

ただし日本では深夜だからほとんどの国民は翌日のニュースで短い抜粋しかみないだろうし、アメリカを褒めれば褒めるだけ、先述の通り自動的・機械的に拍手喝采やスタンディング・オベーションだけは増えるのだから、そこだけを中心に映像を編集できる。

最低でも国会での審議なしには実現しようがない安全保障やTPPを空約束したのも、国会無視だと非難を浴びて後半国会の火種になるだけではない。そんなことはもちろんアメリカ側も把握しているのだし、かえって不信を買う可能性も無視出来ないのに、なぜこのタイミングで大風呂敷を広げたのか?ただし基本、アメリカには有利な話なので、ポーズとしては歓迎してもらえるのは確実だ。

カリフォルニア州に移ってから、安倍はサンフランシスコ中心の北部とロサンゼルス中心の南部を結ぶ高速鉄道に日本の新幹線技術を売り込もうとして州知事を自らシミュレーター見学に案内し、その「トップセールス」の姿もテレビのニュースで流された。こうした日本のテレビ報道だけを見ると、あたかも安倍がアメリカで高く評価され、歓迎し、日本のために大活躍しているかのように見える。だがそれはテレビではそう見えるだけで、実態を伴うものとは限らない…というより、議会演説について下院外交委員会の共和党からも民主党からも批判声明が出たことなぞ日本ではまったく報道されず、一方で演説する安倍の言葉に議場中が立ち上がって拍手する絵は、実はアメリカ政治的にほとんど意味がない映像にも関わらず(ただの儀礼なので)、妙に繰り返し流された。外国語の単語を覚えてその国の人間相手に言うのはもはや毎度おなじみのオバマの得意技にも関わらず、ホワイトハウスの公式晩餐会のスピーチで「アニメ」「マンガ」「エモジ」「ナゴヤカニ」と言った日本語を散りばめ俳句を披露したことを、あたかも安倍への特別な配慮であるかのようにも報道した(いや大統領としての初来日の時には、抹茶アイスのギャグも含めてもっといろいろ日本好きアピールをしていたはずだが)。

安倍がアメリカに日本を売った、安倍はアメリカの言いなりだという批判は一見もっともに見えるが、アメリカ側が安倍訪米の、この媚を売るかのような態度に上辺だけ歓迎のポーズはとっても、信頼しているとは限らないわけで、この訪米を安倍がアメリカに奉仕するためだったとは必ずしも断言できない。

むしろ安倍にとって重要だったのは、日本国民相手に、あたかも自分がアメリカで評価され褒められている、英語で演説もできた(だからなんだ、と筆者は思うが、凄いと思う日本人は多いし、それだけ英語コンプレックスが日本には蔓延している)、こんなに歓迎されている、というイメージを伝えることだったように思える。

言い換えれば、安倍政権とは異常なまでに国内に引きこもった世界観しか持てない政権で、結局は国内、それも自分達の内輪しか見ていないのではないか?訪米すら外交ではなく、ただ国内向けのアピールだったのではないか?だとしたらこの安倍政権の絶望的な狭量さ、世界観の狭さは、彼が極右と目される言動を繰り返していることよりもさらに危険だ、と言わねばなるまい。

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