今年でフランソワ=ミッテラン・元フランス共和国大統領が亡くなってから18年が経つ。一昨年は自身が大統領府の職に就け政界入りさせたフランソワ=オランド氏が17年ぶりに右派大統領を退け大統領に就いた。
ギリシアの哲学者・プラトンは人間を3種類に分けた。
死んでいる人。死んでは いないが、ただ生きているだけの人。そして三番目は、海に向かって旅立つ人。
海とは理想・大志・希望であり、ミッテランはまさに一生涯、海に向かって進んだ人である。
大統領選討論会でユーモアのある切り返し
ジャンピエール=シュヴェーヌマン『共和国市民運動』名誉党首&現元老議員議員、昨年鬼籍に入ったピエール=モーロワ元首相らと共に1971年に社会党を結成し、ミッテランは第一書記(党首)となった。1981年、第五共和制になってから初めて社会党からフランス大統領に当選。在任中は有給休暇拡大、法定労働時間削減、大学入試廃止、死刑制度廃止や私企業の国有化、社会保障費の拡大を図った。だが、インフレの進行で、自由主義的政策に転換を余儀なくされたものの、何度かの保革共存を経て95年までの二期一四年間、大統領職を務めた。
10代後半からの極右運動やレジスタンス活動など、目まぐるしい人生を送ったミッテランは「私は最後の偉大な大統領になろう」といったともいわれる。自分のあとに続くのは、官僚的な政治家か普通の政治家しかいないことを予測してそう口にしたのだろう。氏の後に続いたジャック=シラク元大統領、ニコラ=サルコジ前大統領、オランド大統領をして、ミッテランやシャルル=ドゴールといった歴代大統領に匹敵する「偉大な大統領」と評価する人はまずいない。ミッテランの持っていた「神秘的」なイメージも荘厳な雰囲気も持ち合わせていない。ミッテランの予言はいまのところ、当たっているといえよう。
ミッテランに関してフランス人の評価は人それぞれだ。グリンピースの舟を、工作員をつかって爆破させたり、政敵やジャーナリストの盗聴を命じたりしたミッテランは権力術に長け、したかで残酷な権力者の一面を持っている。ミッテランは老檜な政治家でもあった。1984年4月28日のテレビ討論での話である。
この年は大統領選挙にあたり、再選をめざすミッテラン大統領に対してジャック=シラク首相(当時)が立ち向かった。ミッテラン氏と一対一のテレビ討論でシラク氏はこういった。
「今夜私は首相ではないし、あなたも共和国大統領でないと言いたい。われわれ二人ほ同じ立場にあり、フランス国民の審判に任された候補者である。したがって私はあなたを『ミッテランさん』と呼ぶことを許してもらいたい。」
これに対するミッテランの返答は彼の熟練した政治感覚をよく表している。
「全くあなたの言うとおりだ、首相閣下」
多くの視聴者が見守る中でのユーモアある切り返し。シラクにとって屈辱であり、侮辱であったにちがいない。フランス人はこれを見て、ミッテランとシラクの格の違いを感じさせられただろう。結果はミッテランの圧勝だった。
死刑廃止を断固として決断
トントンの愛称で親しまれ、ミステリアスな性格から「ボヘミアン」とも称されたミッテラン。ミッテラン回顧録・研究書が未だに刊行され続けていることを思うと、ミッテランという存在はいまなお歴史の深い淵にあるといえよう。
フランソワ=ミッテランが遺した知的遺産・歴史的叡智はあまりにも多い。今日の日本に照らし合わせたときに、同氏から継ぐべきものは、5つあろう。
一つは後世から「歴史的偉業」として評価されるような信念に基づく決断を、たとえ、そのときの国民からの抵抗や反対勢力の反発が強かろうが、一つでも為すことであろう。
ミッテランにとって、それは「死刑制度の廃止」だった。ミッテラン大統領が任期中に行った政策で、最大の偉業として国民は死刑廃止をあげている。1981年大統領選挙の折には、国民の63%がギロチンによる極刑の維持を支持しており(反対はわずか31%)、有力な対立候補である現職のジスカール=デスタン大統領は死刑維持を言明し、ジャック=シラク「共和国連合」党首は存置するか廃止するかは国民投票で問うと公約したそのため、フランス社会党の選対幹部の中には、公約として「死刑廃止」を掲げることに反対する意見が多々あったが、しかしながら、同氏は「死刑制度を廃止する」ことにおいて、妥協することはなく、
投票直前のテレビ番組で司会者の質問に次のように応えた。
「良心において、良心に基づいて、わたしは死刑に反対します。それと反対のことを告げている世論調査を読む必要はありません。過半数の意見は死刑に賛成なのです。わたしは、共和国大統領の候補者です」
こう言い終えてから、視線を視聴者へと向けた。
「わたしは思っていることを言います。わたしの信ずること、わたしの心が信じていること、わたしの信念、わたしの文明への配慮を口にします。わたしは死刑には賛成できません」
難解な表現を好んだミッテランにしては珍しく簡潔で明晰な応えだった。そして、大統領選でフランソワ=ミッテランはフランス共和国第五共和制第4代大統領に就く。大統領選後の国民議会議員選挙で左派が過半数を占めるや、「死刑廃止」に心血注いできた弁護士で法学専攻の教授だったロベール=バダンテールを司法相に迎え、同氏が自ら筆を執って「死刑廃止法案」を書きあげる。法案は下院・上院で可決され、死刑制度はついに廃止される。1982年のことである。
調査機関・IPSOSが15歳〜30歳の若者を対象にした10年前の調査によれば、死刑支持派はわずかに30%、死刑廃止派がフランスの多数派となっている。
ミッテラン退任後10年目に『フィガロ』紙が行った調査では、ミッテラン氏の政策の中で最も特筆すべきものとして、10ある項目の中から二つ選べという質問で、死刑制度の廃止をあげた人はダントツ一位で54%だった。二位の「(年間の)有給休暇を5週間にしたこと」「労働時間の40時間から39時間への短縮」をあげた人は各々27%だ。「死刑廃止」はミッテラン氏の最大の偉業として称えられている。
「歴史と勝負する」衿持
二つ目は「歴史」への意識だ。ミッテランは大統領に就いた年の秋、前立腺がんであることを医師から告げられる。そのことは家族にも愛人にも知らせず、担当医とミッテランだけの秘密にした。いつ死を迎えるかわからない運命(さだめ)であっためか、同氏は職務に当たるとき、「歴史」が常に脳裏にあったという。金大中・元大韓民国大統領の言葉を借りるならば「歴史と勝負する」心智(メンタリティ)、或いは「歴史へ挑戦する」衿持がミッテランにはあった。「歴史」への意識を想起させるのは、1995年l月17日に、欧州議会で行なった演説だろう。ミッテランはこう語った。
「偶然の巡り合わせによって、わたしは第一次世界大戦中に生まれ、第二次世界大戦で戦いました。そんなことから、幼少時代には家族が四分五裂してしまったり、家族全員が愛する者を喪い哀しみにくれ怨恨を抱いたり、ときにはつい最近までの敵に憎悪を向けたりしました。しかしながら、みなさん、伝統・慣習が常に変化してきたように、幾代も経て、敵(enémieという概念)は変わってきたのです。フランスはデンマークを除くすべての欧州の国と戦争してきた国だと述べる機会がありました。(デンマークが例外なのは)なぜなのかと私たちも自問しています(笑いと拍手)」
そして、今後は
「(戦争の惨禍といった)私たちの体験を(次代へ)伝えていくことが肝要なのです」
と述べ、(議員たちが)父母から聞いたであろう離別の哀しみや自国で起きた苦しみ、戦場における死といった「歴史」を想起して、「『平和』と『和解』に基づく」欧州を建設するように訴えた。また、ナチス・ドイツの占領下に置かれたフランスで、優しさや親切心といった美徳を実践していた家族の中ですら、ドイツ人について語るとき、敵対心を剥き出しにしていたと語り、自らがドイツ軍の捕虜になったときにドイツ人と接して、フランス人にとても好意を抱いているドイツ人が少なからずいることを知ったと語った。「その時代のドイツ人はみな、フランス人に敵意をもっているという考えは、”予断と偏見”であった」と回顧し、
「これらの偏見を自分たちは克服できずにきている」
と述べ、50年、政治生活をおくった78年の人生から
「ナショナリズム、それが戦争だ」(Le nationalisme, c’est la guerre )
という至言を遺した。議場は拍手で包まれた。ミッテランは続けて、
「戦争というものは過去のものではない。それは私たちの未来にもなりうる。議員の皆さん、これからはあなたがたこそが、私たちの平和と安全、そして、未来の護り手なのです。御静聴ありがとうございました」
ミッテランの晩年を取材した記者によればミッテランはナショナリズムについて語ることが多かったという。その日の演説も練りに練ったという。思索の末に結実したのが「ナショナリズム、それが戦争だ」という遺言だった。はたして”敵” (エネミー)や”テロリスト”に対する”予断や偏見”は今日克服されたといえるだろうか。
ナショナリズムへの警鐘。それがミッテランから継ぐ三つ目のことだろう。
隠し子との面会スクープ写真の出版を容認した太っ腹
四つ目は女性スキャンダル報道に対する、あの悠然とした構えだ。
彼にはダニエル夫人の他に、31年来付き合いのあった愛人・アンヌ=バンジョさんがいた。1943年5月13日生まれのアンヌさんはオルセー美術館に勤務し、二人の間には、ミッテラン氏と58歳も年の離れた彼そっくりの隠し子・マザリーヌ(1974年12月18日、生まれ)さんがいた。
大統領就任直後の記者団との朝食会の席上で、婚外子の娘について質問されたとき、
「そがどうかしましたか?」
とミッテラン氏は切り返した。これはフランスでよく知られたエピソードの一つである。大統領を退任する前年(1994年)、二人が密会しているところをゴシップ週刊誌『パリマッチ』がフォーカスし、それを掲載した。フランスのメディアでは政治家の性事・私生活には干渉しない「政性分離」が原則とされているから、同誌は各メディアから総スカンをくらった。しかし後に、ミッテラン周辺の証言によって分かったことなのだが、実はスクープ写真掲載はミッテランの了解があったのだという。同誌編集者は大統領府を訪れ面会をもとめ、「大統領の了解なしには掲載しない」という意向を、ミッテラン秘書に伝えた。執務室に通された編集者が密会現場の写真を突きつけたときにミッテランが発した言葉がふるっている。
「彼女はキレイだろう。そう思わないかい?」
そして、掲載することを承諾してもらえるかと問われたら、
「私には干渉する権限があるとは思いませんがね」
といい、容認をした。大学生になった娘と公然と面会するミッテランの姿を『パリマッチ』が好意的に取り上げることにより、マザリーヌさんの存在は国民の間で知られることになった。とはいえ、スキャンダルとしては受け取られず、国民からはむしろ好意を持って受け止められたという。ミッテランは同誌が発売する前に、マザリーヌさんに電話すると同時に、正妻ダニエル夫人の親友に電話をし、彼女に優しく接するように御願いしたという。女性に対しては、どこまでも気配りの人だったのだろう。
また、マザリーヌさんの存在をミッテラン氏はあえてこの時期に公表したかったという見方がある。マザリーヌさんは自らの父親が誰であるかいうことは許されず、小学生の頃、「うちのパパは大統領だ」と教師に伝えたら、精神がおかしくなったと思われたという。愛しい娘を一生、「隠し子」にしておくことを不憫に思い、「公の娘」として世間に知らせるため、彼女が大学受験を終えフランスの名門校・高等師範学校の入学が決まった時期にあえて公表したのかもしれない。
オランド大統領が昨年末に女優のもとに足繁く通う姿がスクープされ、事実婚相手と離縁と相成ったが、あたふた戸惑う現大統領の姿は、悠然と構えたミッテランと対比された。
「私はあきらめない」という矜持
ミッテランから最後に学ぶべきは、どんなときも「あきらめない」姿勢だ。占領下でたとえ捕らえられてもレジスタンスを続けた不屈の精神、大統領選に何度落ちようとも最後まで頑張り抜いた根気・しぶとさを見習わなければならない。
130年ぶりの政権交代を果たしてパリ市長に就いたベルトラン=ドラノエ(社会党)はミッテランの教え子だった。当選した直後にダニエル夫人から
「ベルトラン、あきらめてはだめよ」
と励まされたという。その言葉を受けてドラノエ市長は次のように誓った。
「私はあきらめない。あきらめるという言葉は私の気性にも哲学にもない」
これはミッテランの矜持そのものであり、後代に受け継がれるべきグラン・エスプリだと私は確信する。
*動画は1995年1月17日にミッテラン大統領が欧州議会で行った最後の演説を撮したものだ。「ナショナリズム、それは戦争だ」という至言に、欧州議会議員は拍手を送った。
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