【新快名人録Ⅰ】歴史への挑戦者・フランソワ=ミッテラン大統領

フランソワ=ミッテラン元大統領が逝去したのは1996年1月8日のことである。
大統領を退任してから、わずか8ヶ月後のことであった。

この日はジャック=シラク大統領(当時)とパリのメディアとの新年会であった。
新年会に姿を見せたシラクは一言だけ言い遺して新年会の延期を宣言した。
「フランソワ=ミッテランが亡くなりました」
ミッテラン元大統領の人気は衰えず、2011年パリにいた私はミッテランの関連のものを多く見た。大統領に当選して20年という節目だからであった。

今年は死刑執行がフランスで最後に行われた年から30年になる。1977年9月10日に31歳の死刑囚がギロチンによって処刑されて以来、フランスでは死刑は執行されていない。それはフランソワ=ミッテラン氏が大統領に就任した1981年に死刑制度が廃止されたからだ。それを主導したのは、弁護士時代にあえて死刑囚となろう刑事被告人の弁護役を務めて、死刑執行に必ず立ちあったロベール=バダンテール司法相(当時)だった。

ミッテラン氏が死刑廃止を公約に掲げて大統領選挙に出馬した1981年は、フランス人の63%が死刑に賛成し、反対派はわずか31%だった。ミッテラン氏の周囲ですら死刑廃止を公約することに慎重な意見が多かったという。にもかかわらず、信念に依って彼はその主張を翻さず死刑廃止を公約にして、大統領に就任するなり、死刑を廃止した。

法国大統領選挙1981年、第一回投票で最後となる討論番組に出演したミッテランは死刑について問われると決然に語った。

「良心において、良心に基づいて、わたしは死刑に反対します。それと反対のことを告げている世論調査を読む必要はありません。過半数の意見は死刑に賛成なのです。わたしは共和国大統領の候補者です。」

こう言い終えてから、視聴者に目を向けた。

「わたしは思っていることをいいます。わたしの信ずること、わたしの心が信じていること、わたしの信念、わたしの文明への配慮を口にします。わたしは死刑には賛成できません」

難解な表現を好んだミッテランにしては平易な表現であった。

世論調査会社・IPSOSが15歳~30歳の若者を対象にした2004年調査によれば、死刑支持派はわずかに30%、死刑廃止派がフランスの多数派となっている。2006年12月の世論調査によれば、死刑制度の復活に賛成するフランス国民は33%のみで、復活に反対する反対が64%と多数派を占めている。

 世論調査会社・Tns-Sofresが2005年12月20日、21日にフランスの有権者1000人を対象にミッテラン元大統領に関する電話調査を行った。同氏が実行した政策の中で「偉業」だと思うものを問うたところ(複数回答可)、死刑廃止をあげた人がトップで71%、生活保護費や年金の充実、週39時間労働制の実施などの「社会政策」をあげた人が次いで66%で、マーストリヒト条約の署名をあげた人が3番目に多く41%だった。「死刑廃止」はミッテラン氏の最大の偉業として称えられている。

同調査でミッテラン氏が大統領を務めた任期14年に対する評価を問うたところ、63%の人が「評価できる」と答え、「評価できない」という回答は26%に過ぎず、圧倒的多数の人がミッテラン政権に好感を覚えていることが分かった。ミッテラン氏に対する「総合的な評価」を問うたところ、55%の人が好感を覚えていると答え、好感を持たないと答えた33%の人を大きく上回った。

 戦後の大統領で最も偉大な人物をあげよという設問では、35%が建国の父といわれるシャルル=ドゴール初代大統領の名を挙げ、ミッテラン氏と回答したのは30%で2位、3位につけたジャック=シラク元大統領の名をあげたのはわずかに7%に過ぎなかった。ミッテラン氏は後世から支持される人物のようだ。

 
◆愛人との逢瀬

 ミッテラン氏が愛されるのは、彼のチャーミングなキャラクターも影響しているだろう。

 ミッテラン氏は「愛に生きた」人であった。彼には正妻のダニエル夫人の他に、18歳だった1961年にミッテラン氏と出会い、交際を始めたアンヌ=パンジョさんがいた。1943年5月13日生まれのアンヌさんはオルセー美術館に勤務し、2人の間には、ミッテラン氏と58歳も年の離れた彼そっくりの隠し子・マザリーヌ(1974年12月18日、生まれ)さんがいた。

 大統領就任直後の記者団との朝食会の席上で、婚外子の娘について質問されたとき、「それがどうかしましたか?」とミッテラン氏は切り返した。これはフランスでよく知られたエピソードの一つである。

 大統領を退任する前年(1994年)、2人が密会しているところをゴシップ週刊誌『パリマッチ』がフォーカスし、それを掲載した。ミッテラン氏は同誌が発売する前に、マザリーヌさんに電話すると同時に、正妻ダニエル夫人の親友に電話をし、彼女に優しく接するように御願いしたという。女性に対しては、どこまでも気配りの人だったのだろう。

 また、マザリーヌさんの存在をミッテラン氏はあえてこの時期に公表したかったという見方がある。マザリーヌさんは自らの父親が誰であるかいうことは許されず、小学生の頃、「うちのパパは大統領だ」と教師に伝えたら、精神がおかしくなったと思われたという。愛しい娘を一生、「隠し子」にしておくことを不憫に思い、「公の娘」として世間に知らせるため、彼女が大学受験を終えフランスの名門校・高等師範学校の入学が決まった時期にあえて公表したのかもしれない。

 前立腺ガンに犯されたミッテラン氏は大統領を退任すると、死ぬまで数々の女性との逢瀬を楽しみ、朝帰りを繰り返したという。「ミッテランには愛人が100人いた」という話はあながちウソとはいえまい。ダニエル=ミッテラン夫人にも恋人がいたというから、2人はまさに成熟した大人の関係だったのだろう。

 1996年1月8日に昇天した後、ミッテラン氏の故郷で葬式が行われた。ミッテラン氏の遺言により、席順が決められていた。最前列にはダニエル夫人とその子どもたち、その臨席にマザリーヌさんとアンヌさんが座わった。葬式はテレビで報道され、哀しみにくれ、涙を浮かべて悲嘆に暮れるアンヌ親子の姿がテレビ画面に映し出され、フランス人の心を揺さぶった。

 ミッテラン氏のようにミステリアスで人間的深みのある大統領がフランスで誕生することは2度とないだろう。「最後の偉大な大統領」と形容するに相応しい。

Par Henri


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