東京の玄関口の成田空港がまったく使い勝手の悪い、時代遅れな空港であることは、今後のグローバル化されて行く世界のなかでの日本経済の生き残りにとって、数年前に巷間に大騒ぎされた「携帯がガラパゴス」よりも遥かに深刻なガラパゴス問題である。東京都の副知事、知事だった頃の猪瀬直樹氏などは再国際化する羽田空港への一本化を公言していたし、国土交通省でも内部ではそれが既定の大方針になっている。
だが成田空港はあまりに大きな犠牲を払って作られた空港であり、だからこそ廃止ないし縮小という方針に千葉県が猛反対を続けているため、国の側でもおおっぴらに論じることができない。メディアが本気で取り上げさえすれば、千葉県の自民党は壊滅するのかも知れない。
成田空港の未来は無用の長物に近い。
とはいえそこまで犠牲の大きかった建設経緯の後遺症として、当初計画の滑走路の半分しか今でも完成しておらず、夜間発着ができず国際ハブ空港としての運用が不可能な成田空港の未来は、有り体にいえば無用の長物に近い。
千葉県成田市の東部、三里塚に空港を強引に建設したことの大きな犠牲は、しかし地元の人々がどれだけ苦しんだかの歴史ではなく、「学生運動の過激派が」という文脈でしか世間一般には理解されていない。ちょっと異なるのが映画の世界で、反対派農民の支援で三里塚に住み込んだ小川紳介監督と小川プロダクションの『日本解放戦線・三里塚』に始まる三里塚シリーズは、日本ドキュメンタリー史の金字塔として、今も熱心に見続けられている。
日本を代表するドキュメンタリー映画キャメラマン、大津幸四郎はその一本目、『日本解放戦線・三里塚』のメインの撮影者であり、この最新作『三里塚に生きる』はその大津が今度は二人の共同監督の一方も兼ね、自分が一本だけ撮影したまま離れてしまった三里塚に戻り、小川紳介ですら語り尽くせなかった歴史の傷痕を今も抱える三里塚の今を探ろうしたドキュメンタリーだ。
柳川さんは空港開港から35年でも闘いを継続
中心になるのは、『日本解放戦線・三里塚』で東京での学生生活を終え故郷の三里塚に戻り、母親の農業を手伝う笑顔が印象的だった柳川さんの現在と、柳川さんと同じ反対同盟の青年行動隊のメンバーで、志半ばに自ら命を絶った三宮さんの記憶だ。成田空港公団の博物館に寄贈されている小川プロの撮影フィルムもふんだんに使われ、一生懸命に戦った過去と、すべてが終わってしまった現在が交錯する。
出来上がった映画は、とてもロマンチックだ。
空港が開港してもう35年が経ち、柳川さんはそれでも反対の闘いを続けている。もう無意味じゃないか、という疑問に、彼は「俺が戦うのは、それが俺の自由だからだ」と言い放つ。一方で今は同じく初老の、気のいいおじさんになったかつての青年行動隊の人たちは、40年以上前の青春のまっただ中に自殺した親友を思い、純粋な涙を流す。優秀で将来におおいに期待していた息子に若くして先立たれた母親は、決して言えない哀しみを滲ませる静かな微笑みを浮かべ、語り尽くせない過去を語る。
その顔がどれも美しく、大津のキャメラはかつて自分がその人たちから途中で離れてしまった悔恨を滲ませつつ、繊細に、しかし時には朗らかに、辛い過去を背負いながら今も生き続ける彼らを捉えている。大津の撮る人々の顔と風景を見ていれば愉しめてしまう映画だ。
作品の構成自体はNHKっぽい「歴史教育番組」
だが根本的な疑問がいくつか残る。第一に、なぜここに、これほどまでの犠牲を払って空港が出来たのか?そして第二に、なぜ今になって空港建設についての映画を作るのか?残念ながらこの映画は、見ている者なら誰もが気づくこの疑問に答えることから逃げ続けて終始してしまう。
作品の構成自体は、ある種のいささかNHKっぽい「歴史教育番組」だ。今の若者たちが見れば、昔の若者はこんなに純粋に、ある理想を信じて頑張って生きたのだと感銘し、自分たちも頑張らなければ、と思う…かも知れない。編集構成からはその(たぶんに説教臭く上から目線な)意図が垣間見え、中盤では三宮さんの遺書を俳優の井浦新が感情を込めて朗々と読み上げさえする。大友良英のパーカッションを中心にした音楽が、農民の力強さを鼓舞するように繰り返される。
だが残念ながらその「教育効果」は、三里塚闘争をリアルタイムに知らない世代なら、小川紳介の映画を見て来た一部の映画ファン以外にはまったく作用しないだろう。理由は簡単だ。なぜ彼らが空港に反対したのかがよく分からないし、なぜ三宮さんが自殺を決意するまで追いつめられたのか、反対運動の過程でなにがあったのかも、事実関係を訊ねるインタビュアーに関係者が答えてくれてはいても、これまたさっぱりよく分からないのだ。
三宮さんの遺書はなぜ自分が死ぬのかを説明していない。
三宮さんの遺書もまた、なぜ自分が死ぬのかを説明していない。実を言えばその事情は恐ろしく複雑であって、同じ事実でも立場によって見え方がまるで異なって来る。それでもピンと来るような、心のこもった、聞き手と訊かれる側の感性がシンクロするインタビューがあれば、三宮さんが死ぬしかなかった心の痛みは、観客に直感的に共有されるものになったはずだし、そこから日本の近代化のために払われた大きな犠牲や、普段は滅多に目にすることのない国家の暴力的で卑劣な一面も浮かび上がったはずだし、日本が戦後邁進して来た「近代化」そのものへの疑問すら提示できたはずだ。
実は筆者自身は、ある程度は聞いていたりしていたもので、映画のなかに言及がなくてもこうした事情を読み込みつつ見ていたから、それなりに納得はできてしまうのだが、背景知識がなければ、なにやらえらそうに説教臭いわりに、さっぱりなにが言いたいのか分からない映画なのではないか?
この辺りの事情の複雑さを、その時には三里塚を離れてはいても、リアルタイムで過去を共有していた大津幸四郎が、自らキャメラを向けつつ話も直に聞いていれば、質問もその答えも違ったはずだし、キャメラマンがインタビュアーを兼ねていれば、語る人たちはキャメラに面と向かって、つまり観客の目を見て辛い過去を語ることになったはずだし、映画の持つ説得力も、がぜん違ったはずだ。
『永遠の0』と通じる死者の美化
だが個々のイメージがとても美しく、それだけでもここに空港建設を強硬したことの罪は観客の心に刻まれるかもしれないにしても、映画全体の構成では結局、三宮さんが亡くなったというその事実だけを美化して「有望な若者が死んだからひどいよね、悲しいよね」に落とし込んで終わってしまう。
これでは『永遠の0』で理由はさっぱり分からないが平和主義の青年が特攻隊になって死んだから悲しい、それで感動するという構造の左翼バージョンにしかなっていない。遺書を感情を抑えてではなく、「三里塚紛争粉砕!」と絶叫までしてしまうように読ませては、もうまったく『永遠の0』的な特攻隊だ。なにしろその遺書を読んでも、文字情報としてはなぜ三宮さんが死を選んだのかは書かれていないので、「死んだから、青年が命をかけたから」という感情論の美化以上の意味を持ち得ないのだ。しかもあまりに表層の感情に突っ走った朗読の演出なので、本文の行間に滲み出ていたはずの、彼が死を選ばざるを得なかった複雑な事情を、観客が察することすら出来まい(ここも『永遠の0』に通じるところで、現実の特攻隊員がやむに止まれぬ複雑な事情にがんじがらめになって死を選んだ微妙さが、やはり完全に抜け落ちている)。
もしかしたらその複雑さを語るのに、いろいろ制約があったのかも知れない。だからこそ中途半端な映画にならざるを得なかったのだろうか?でもそれなら、妙に理屈っぽい説教調の構成はとっとと放棄してよかったはずだ。大津キャメラが全力を開花さえすれば、もともと自然が厳しくも豊かな土地柄でもあり、十分にポエティックな映画として成立したはずだ。
空港の反対運動のなかで学生が実は最初から農民の運動から「浮いて」いた
かつて小川紳介はあえて学生の運動ではなく農民の運動としての三里塚闘争を映画にし、この『三里塚に生きる』もそれを基本的に踏襲しているが、なぜか最初に登場するのは、今でも団結小屋に居残り続けている、かつて学生だった団塊の世代おじさんだ。まずここで映画の世界に、つまり三里塚の農民たちの世界に入り込めずにつまづく観客も多いだろう。
なにしろこのおじさん、大変に失礼ながらなんの魅力もない。なんで映画に出られるのかが分からない。かつて団結小屋だった家での生活も、なんとも小汚く滑稽で、しみったれている。若者がそう言えば、団塊の世代が「お前らはなにも知らないくせに生意気だ、失礼だ」と怒鳴るのだろうが、だからって自分たちになんの魅力もないという現実はちっとも変わらないのだから、自己中心的にエゴとプライドに固執しても意味がない(という当たり前に気づけないのに威張っているから、団塊の世代には魅力がないのである)。
空港の反対運動のなかで学生が実は最初から農民の運動から「浮いて」いたこと、地元農民の反対運動とどうにもズレていて、最終的にはもっとも世代が近い青年行動隊と決定的に決裂した(セクトに命を狙われた人さえいた)という語られざる事実を知っていれば「ああ、こんな人たちがわけも分からず、農民の運動をめちゃくちゃにしたんだ」と合点も行くし、三宮さんの死とも明らかに繋がって行くはずだが、だったら冒頭に持って来る必要はない。もしこのおじさんを現代の、都会の観客に少しでも近い人として入り口にしたつもりなら、それはテレビの構成台本の論理というか、映画とは何か、映像の力がまったく分かっていない編集構成だと言わねばなるまい。確かに立場としては近くとも、これでは「この人はなんでこんなに愚かなのだろう?ああはなりたくないね」で、観客はシラけてしまうだけだ。
世間に流布する「過激派の反政府運動」はまったくの誤解なのだが
三里塚の空港反対運動の歴史は、実は今でも語ることがもの凄く困難なものだ。言ってしまえばあまりに多くの人が傷つく話も多い。
世間に流布する「過激派の反政府運動」はまったくの誤解だが、一方でそうした過激派セクトがのさばって泥沼化した状況のなか、農民達の側にも様々な分断が作り出されてしまい、その傷は今なお癒されてはいない。そして肝心の今の三里塚は、空港で働く人たちのベッドタウン化している。その現地から見れば空港は今もなお、異様な防護の柵と、ちょっと柵の周囲をうろつくだけで駆けつけて来る機動隊で守られている。ほとんどバカバカしい儀式として、公安と機動隊の出動だけは今でも続いている。
この映画はそうした「故郷の、生活のあった土地の喪失」を個々のショットでは丹念に写し取っているが、編集構成がそれを裏切って、ただ一人の青年が自殺したんだから悲しいじゃないか、ひどいじゃないか、という感情論に依拠してしまう。つまりは『永遠の0』が特攻隊をまるで美化できないことで美化している気分になっているのと、そう変わりはない。あるいは、小川紳介がそこに惚れ込んだような農民のコミュニティの持っていた倫理を、戦後日教組の学級会的な論理で無理矢理読み解こうとして、当然ながら失敗していることにも、気づけていない(学級会的で日教組的な空虚な価値観も『永遠の0』に共通する)。
空港が出来たことで、北総大地でいちばん標高があり猛烈な風が吹くこの土地で農業を可能にしていた防風林も、大半が失われてしまった。それでも周囲にはまだ美しい農村風景もあり、春先になると猛烈な風がまず吹き、木の本数こそ減ったものの、息を呑むような桜の名所になることだけは、今も変わらない。しかしその悠久の大地に現代日本人の文明が作り出したものは、なにもかもが虚しく停滞している。それは20年ほどの時代のズレがあるものの、バブル崩壊後の日本の痛切なメタファーでもあろう。
この映画で40年以上前、まだ自分達があどけない青年だった時代に亡くなった友人を思い心から純粋な涙を流すおじさんたちは、言い換えれば反対運動とその敗北で人生を失ってしまった人たちでもある。過去の傷を引きずったまま先に進めず、生ける屍のように悶々として来ただけの人生もあったかも知れず、決して彼らの涙に手放しで共感して美化していいものではないはずの、苦く痛々しいものだ。だが編集と構成は、その痛みをきれいに隠し、映画から取り除くことにばかり腐心しているように見える。
すでに時代遅れの使えない空港は政治の妥協によってのみ存続している
そもそも今、なぜ三里塚の映画を作るのか?
人生の秋を迎えた大津幸四郎がそこに戻りたかったから、で十分な理由になったはずが、しかしならば大津の「帰郷」をもっと全面に打ち出し、彼のパーソナルな心の動き、その悔恨、その痛み、途中で去ってしまったその反省に裏打ちされた映画にしなければ、説得力が足りないのではないか?
あるいは、今三里塚で映画を作る理由は実はある。あれほどの暴力と、地元の人々から人生を奪う大きな犠牲を経て出来た空港は、その人たちがまだ生きている現代に、すでに時代遅れの使えない空港として、本来なら終焉を迎えるべきところを政治の妥協によって(利用者に多大な不便をかけつつ、自らの空港としての将来を棒にふりつつ)のみ存続している。東京から遠くて不便な上に(つまり羽田には絶対にかなわない)、そもそもこんなに風が強いところ、関東地方でもっとも強風が吹き江戸時代までは農業が出来なかった土地に空港を作ってしまい、しかも滑走路が足りないので風が理由の遅れも日常茶飯事だし、とくに着陸の際には機体が揺れてけっこう怖い。
なんでこんなところに空港を作ったのか?当時、日本の発展のために新しい国際空港が必要だと思われたことは否定出来ないが、だからってここに作るとは、あまりに拙速な判断ではなかったのか?それを地元に押し付けるプロセスは、なぜこうも暴力的だったのか?ここに象徴される日本の近代化とは、いったいなんだったのか?今の日本、今の東京では、この三里塚に凝縮された近代史を再検証すべき理由は山ほどある。
三宮さんの苦悩と自をただの無駄死にしないために
その拙速な近代化の犠牲にされた農民達、という僕たちの都会化された日常とは反対側からの構図で三里塚の歴史を検証する映画なら、今作られる必然はあったはずだ。自分たちから青春を奪った空港が、初老の自分達の目の前で今のようなことになっているとは、こんなに人を馬鹿にした話はない。このままでは、三宮さんの苦悩と自殺は、ただの無駄死にではないか。
地元の運動を全国区的にはいわばのっとったセクト、それを支援した東京だとかの、自分達では左翼で民衆の側だと思っていた人たちに責任はないのか?彼らはそもそも、ちゃんと考えて農民の空港反対に賛同したのだろうか?結果論からいえば、三里塚闘争の失敗は、その後の日本各地の大規模開発に反対する運動にとってのトラウマになり、スティグマともなった。たとえば原子力発電所の建設に反対する運動などは、すべて失敗する以前に、「三里塚のように思われては困る」という強迫観念で最初から反対の声すら上げにくく、国家政府はいわば不戦勝の連勝を満喫して来た。
三里塚でのセクトのやり方が広範な国民的世論の支持を得ようとするのとは真逆で、むしろ支援に来たはずの相手であり歓迎もしてくれた地元の人たちの反感を買い、全国的には庶民・農民が国の巨大開発計画に反対するだけで「過激派」とのレッテルを貼られるリスクを背負い込むことになってしまい、声をあげようにもあげられなくなってしまったのが、三里塚後の日本のいわば田舎、辺境である。そういう現代を招いてしまったこと、生活者としての大衆から自分達の権利を主張する手段を奪ってしまったことに、セクトや支援した都会の左派になんの反省もないのなら、三宮さんの自殺はやはり無駄死にになる。
結果、『三里塚に生きる』はなんとも遠慮した映画になってしまっている。いや別に映画に強い主張が絶対に必要なわけではないし、正論を押し通し多方面に喧嘩を売ればいい映画になるわけでも決してないし、映画が「正義」である必要性があるかどうかすら筆者自身は疑問に思う。だがそれでも映画には、そのキャメラの前にしかない人間的な深さだけは、絶対に必要なはずだ。
大津のキャメラワークと、そこに映り込む人々の顔や生きている空間、風景にはその厚みがある。だがその表現の繊細さは、空虚な絶叫調と妙に衒学的で上から目線の、その割にはことさら言いたいことがあるわけでもない、中途半端に理屈っぽい、要は生半可な日教組風の学級会的な優等生の構成にかすんでしまい、映像の印象すらなんとも薄められてしまっている。成田空港の存続が今やどうでもいい政治的妥協の産物に成り下がったからと言って、三里塚がこんな皮相な構成で見せられるようなどうでもいい場所になったとは、決して思えないのだが…。
空港予定地になったのは、単に関東・東京近圏で唯一最大面積の平らな国有地だったから
いやなにせ、ここは日本近代農業発祥の地、最初は明治政府の畜産試験場で、洋服のための羊毛をとる羊の飼育は日本ではここで始まり、毛織物産業発祥の地であり、明治天皇の御料牧場になり、日本の有機農業の発祥の地にも競走馬飼育の発祥の地にもなり、ジンギスカン鍋もここで生まれ、御料牧場の防風林で一般の農民もここが開拓できるようになって、世にも美しい田園風景が広がっていたことは今でも語りぐさであり、今の天皇の少年時代には孤独で世界への疑問に苛まれた少年皇太子のほとんど唯一心休まる場所となり、戦後には故郷を追われた沖縄の人々の新たな故郷として土地が提供され…と、明治以降100年の農業と農民の濃厚な歴史が凝縮された場所が、三里塚だった。その三里塚で沖縄からの開拓民が戦後十数年懸命に働き、やっと生活が安定して来たその時代に、突然空港建設が決まったのである。
空港予定地になったのは、単に関東・東京近圏で唯一最大面積の平らな国有地だったから、そして天皇家の牧場の文化と伝統なんて今さらどうでもよかったから、というに過ぎない。
三里塚に生きる 監督 大津幸四郎 代島治彦 撮影 大津幸四郎 編集 代島治彦
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