マーティン・スコセッシが描くウォール街。金融資本主義とはギャンブル経済であり、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の世界が『カジノ』や『グッドフェローズ』とどう違うのかと言えば、マフィアの方がまだ人間性と気品、歴史の重みがあっただけマシ、とすら思えて来る。
米国史上最大の金融詐欺事件を映画化
当時にはアメリカ史上最大の金融詐欺事件といわれた実話の映画化だが、その記録はリーマン・ショックでとっくに塗り替えられている。そうした事件の本質は、このジョーダン・ベルフォードの詐欺事件からリーマン・ブラザーズへと、どんどん合法性と違法性の境界が曖昧になって来ている。だがそんなこと百も承知で見ていても、やはりこの映画がショッキングなのは、ウォール街を動かす当事者たちが、合法か違法かなんてまるで気にしていないことに気づかされるからだ。
金融業界を描くのは映画では決して簡単ではない。この映画の時代には仲買人は電話で顧客と交渉し、その口八丁の手練手管はまだ映画になるが、現代の電子化された金融の世界が映画になるだろうか?全てが人の目には見えない、映像にも映らない、ヴァーチャル空間の数字のやり取りで、世界が動いている。
巨大金融詐欺やインサイダー取引は快楽
いやこの映画とて、金融業界の複雑な金の動きや手続き、こと金融詐欺ともなればその手口をいちいち観客に理解させようとはしない。時には主人公が巨大金融詐欺やインサイダー取引の手口を、キャメラに向かって説明さえしてくれるが、分かったような分からないような長台詞を早口でまくしたてた最後に「これで分かったかい?分かるわけがないだろ。合法かどうか?もちろんそんなわけないさ」が結論。
これこそがマーケットの本質なのだ。すべてが軽薄で空虚で無意味、いちいち語る必要がない。ある意味親切に分かり易い映画でもある。最初にベルフォードが証券会社に勤め始めた時に、マシュー・マコノヒー演ずる先輩のカリスマ証券マンが、ことの本質をちゃんと説明してくれるのだ。すべてはアドレナリンをどう維持するか。その勢いで顧客にはとにかく投資をさせ続けろ、投資されている限り資金は紙の上のヴァーチャルでしかなく、売買がある度に自分達の手元にはしっかり手数料がキャッシュで入る。では自分のアドレナリンをどう維持するのか?もちろんドラッグとセックスに決まっている。
客には賭けを続けさせるのが鉄則。
最後に笑うのは我々
「客には賭けを続けさせるのが鉄則。最後に笑うのは我々」。これは『カジノ』で語られたカジノ経営の奥義だ。ドラッグとセックス以上にギャンブル、そして何よりも株取引、金融資本主義とは、依存症なのである。だから本質的にすべては空虚であり、ヴァーチャルな市場の内部だけで実態のない金銭が飛び交うだけ。この空疎な世界の軽薄なカリスマを、中身はなにもないと百も承知の観客すら思わず納得させてしまう迫力で演じるレオナルド・ディカプリオが、これまで演じて来た役柄を根底から覆す天才俳優っぷりを見せつける。証券業界もスタービジネスなのだ。
徹底して空疎で軽薄なバカ騒ぎの繰り返しが、ひたすら雪だるま式に自己増殖していく―頂点に達し、バブルが破綻するまでは。
3時間の躁状態の後に訪れるのは、
どうしようもない絶望
その軽薄な狂躁を徹底して、3時間かけて見せるこの映画は、スコセッシ本人のたぶんに躁鬱的な気質を反映してもいる。3時間の躁状態の後に訪れるのは、現代の世界が行きついてしまった果てを見る、どうしようもない絶望だ。それはただ、現代の資本主義が空虚であることの絶望に留まらない。その空虚なカリスマ達こそが世界を動かしているだけでなく、私たちがそれを受け入れていて、憧れすらしていることの絶望。自分達には何もないと自ら決めつけて、自由に産まれたはずの世界でそんな空虚さの奴隷になっていることを、この映画のラストショットは強烈に印象づける。『グッドフェローズ』と『カジノ』は空虚を直視した主人公の顔で終わっていた。この映画をスコセッシは、私たち無数の、無形の観客の、ひたすら空虚で無表情な顔、顔、顔で終わらせる。
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